2014/12/12

安里やユンタの子孫

祖母の屋敷(祖母の生家)を見るために歩いていると草を刈っている人に呼び止められた
この人は安里やユンタのクヤマの子孫らしく、若い時、戦争中は士官学校から広島江田島にいて潜水艦の方の特攻隊だった。終戦で捕虜から日本に戻ったとのこと。

ここが、琉球王府からクヤマに与えられた畑。けっこうな広さだった。

長い間、東京で政府関係の仕事をしていて終えたのち、竹富島に戻て草が生えて道なき道となっていたところをこのような道を作ったそうだ。

竹富島は、一家の長男はそのまま居て嫁を迎える。でも次男以降は、家を出て分家して家を建てる。

長男が継いだ本家。本家から出て、本家の前に家を建てると前〇〇という姓をつくったり、屋号にしたりする。
本家の前なら前〇〇。
本家の後なら後〇〇(後ろは、「シー」)
西側なら入〇〇か、西〇〇(日が西に沈むから西を入りとか、イルとかイと読んだりする)
東側なら東〇〇(日が上がってくるので東は、アイとか読んだりする)

この子孫の方は、ていどん(竹富島の人という意)が戻てきて分家したときのために地ならしや土台つくりなどの土地の整備をしているそうだ。


竹富島で感じるのは、みんなが島を愛していて、そして互いを思いやっている姿勢を崩さないことだ。

ミシャシ

美崎と書いて島の人は、ミシャシと言っている。
この奥は、旅に出る人や戦争に行く前にお拝んでもらう御嶽。
昔、私はここで拝んでもらっただはず。
 昔、大正時代の頃は、ここに桟橋があったそうだ。
今現在使っている港よりもいくらか石垣港へ近そうな気もしないでもない。
 行った日は、満月の翌日の一時頃で潮が引いていて岩が見えていた。
ぽつんと上を向いているような小さな岩石は人の想いが岩になってしまったという。
八重山は、石化伝説が多い。

とにかく、沖縄はとくに八重山、竹富なんてなんもなくて、ただ海しかない!ようなところなわけで・・・。
だから明治時代になって人頭税が解けて島間移動が自由になったり学校教育がはじまり、石垣へ台湾へ沖縄本島や本土へ行くようになっていたんだろう。

2014/12/10

まちゃばーさん

私の先祖のことで以前、祖母の土地に住んでいたまちゃばーちゃんに話を聞いた。

まちゃばーちゃんは、現在は「ゆがふ館」で案内スタッフとして活躍しているそうだ。なんと90歳!女性の時代、キャリアウーマンを地でいっている2014年的な女性だ。
今現在は、築100年という文化財となっている與那国(マイユヌンニヤ)のトーラに住んでいる。
與那国邸は、昔の従来の竹富島の家屋のスタイル。
私の父の沖縄の家の間取りもここに似ていた。

向うの小さいおうちが、まちゃばーさんが住むトーラ(台所)の建物。
そこに小さく一人で暮らしている。


輿那国家は立派な家だそうだ。みな学があり、この家から竹富島の町長も出た。

まちゃばーちゃんは、私の祖母の従弟の奥さん。
私の曾祖父の事を聞いた。
曾祖父は、ナーのマイキュリャー。太鼓がうまかったそうだ。







竹富島の衆議院選挙の場合



今回、竹富島に行き、親戚数人に会った。
島全島に放送が入る。
親戚と話していると度々選挙のお知らせ放送が入った。
今回2014.12.14日の衆議院選挙、八重山の離島投票日は13日。
離島は、前日の13日なのだ!
えー!なんか不公平な感じがした。
画像は、八重山日報の記事内の広告。

離島は、国政選挙の実感は薄かった。
石垣島でも選挙の温度低かった。

2014/10/28

メレーターが多いわけ.



近親婚とメレーター(婚外女)が多い竹富島。
それは、けっして大昔からというわけではなさそうです。
親戚の伯父さん、伯母さんたちや竹富島にて育った方に聞いたり、昔の記録等から意外な事実が浮かび上がってきました。

通い婚
親同士が決めた男女。男が女の家に通い、その家の畑仕事を一緒にやったり、食事をとったり二人目の子が生まれるころまでそういう半同棲ようなカタチで暮らし、二人目が生まれる頃に新たに家を構えるというスタイルだった。
教育制度
明治の中期ごろに竹富島でも始まった学校教育制度によって、さらに学ぶ者は、石垣島の学校、もしくは台湾へ。
学業に進む者のほとんどは男。
国民皆徴兵制
それまでは、畑、漁の暮らしから兵役に就くよう徴兵検査で通った男は、配属された地へ赴く。
人頭税廃止により賄い女のくちは終わる
人頭税等で島に留任するウシュマイ(役人)の賄いをするための賄い女(自動的にめかけ)制もなくなる

男女不均衡な人口形態
当時の竹富島の女性の生涯は、子育てと畑作業と機織り。ところが島から男の流出が相次ぐ。
上記のような人口動態で男女の絶対数があわなくなってくる。
ところが基本は、通い婚なわけで、どうしたって女が余る。
ということで婚外関係によっての女性と子供が多くなったのだろう。

そういことで私の曽々祖母たちはそういう立場になって子供を宿し養育していくことにいたったのではないだろうか。




ハジチ


女性は、結婚すると手の甲にハジチという刺青を入れていたそうだ。
昭和15年の冬、四番目の孫の出産のために竹富島から上京した母の曾祖母。
外で食事をするときに手に入ったハジチが恥ずかしく隠していたとのこと。
*上記の写真の曾祖母のエピソードではありません。

この写真は、父の方のばあさんだと思われます。
(父のところからでてきたから)

明治時代中期あたりまで行われていたそうです。

明治時代に入って竹富島の生活スタイルががらっと変わったようですそれは・・・。



2014/10/24

通い婚

大正時代あたりまで竹富島の結婚は「通い婚」だった。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
竹富島のこの通い婚という習慣によって結婚が成立できなかったことが多々あったようだ。

戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。

沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。

竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。

島の歴史に精通していた阿佐伊氏の死

9/28日曜日、自由が丘の沖縄料理店、在京の竹富島出身者愛好者の親睦定例会に出席した。ゲスト参加したてぃーどん3世で近く結婚式を挙げる若いカップルにみんなで祝杯をあげた。

そして長く東京竹富郷友会で活動をしていた阿佐伊孫良氏の訃報が伝えられた。
阿佐伊孫良氏は、竹富島、西集落の屋号アサイヤの三男。
明治時代以前の人頭税時代に島に駐留した与儀与人(よぎよんちゅ)の子孫。
東京竹富郷友会の大功労者だった。
学生時代に上京し東京に居ながらもつねに竹富を想い活動していた。
昭和50年頃の阿佐伊孫良氏。八重山に関する雑誌等で若いころから執筆をしていた。

私が祖父のことや曾祖父について尋ねると「この本を読むといいさー」とすすめられた。
この本は、阿佐伊氏が竹富島の近代昔の農具をはじめとした生活品などを蒐集した上勢頭(うえせど)亨氏が保存していた公文書などを現代文に書いたもの。
今年(2014)、2月に竹富島の阿佐伊氏を訪ねたときは元気だった。それが私が見た最後の姿となった。このときすでにガンの病にあった。
他のてぃーどんの人と断然違うのは竹富について絶対にゆずらない人だったこと。
多くの文献に触れ、竹富のあった姿をきちんと伝えるための人生だった。ご冥福をお祈りいたします。

戦後沖縄のアルバムから

父の持ち物を整理して出て来たアルバム。

数少ない少年期の写真、復帰前の閑散とした沖縄の風景が写っていた。
中央に写っているのが南洋相互銀行に一時期勤めていた祖父。

父が沖縄のバス会社「銀バス」に勤めていたころ。
父が就職した昭和29~32年当時は、アメリカの払下げのスクールバスを直して、市内運行用バスに使っていた。

父たちは、戦争中は竹富島で過ごし終戦で多くの人が帰ってきた。
大正時代に南洋に移り住んだ人々から台湾に移り住んだ人々、満州から戻った人々で小さな竹富島は人が飽和。
竹富島は、農業に適さない地質なので皆に供給できるほど畑がないので、隣の西表島に開墾で渡っていく人が多かった。
西表島に多くの人が渡ったが、そこも農業には向かないので多くの人が去って行った。
父の一家は、家庭不和もあって一時期石垣島に渡ったがじきに与那国へ渡った。

たぶん、石垣港から与那国島行きの船に乗り込む前に取った一枚だと思われる。
祖母は、赤ん坊をおぶっていた。
みな、けっこうモダンな恰好していた。
当時の与那国島は、密貿易が盛んだったそうだ。
父の一家のように畑仕事で食べて行こうとする素朴な思考の人と儲けのために渡っていく人も少なくなかったそうだ。

竹富島の土地

過疎にみられている竹富島。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。

島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。

認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。

そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの

実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。

竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。

父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。

竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。

昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?

私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。

2014/10/23

崎山毅「蟷螂の斧」より

竹富島は、達奇度奴(たきどぬ)と呼ばれ、昔、屋久島、徳之島、久米島沖縄島から祖神(おやがみ)たちが渡来して、ここに邑(むら)建てをしたと
「神すじ」で伝えている。

★「神すじ」 神司(かみつかさ)が祖神(おやがみ)さまの前で唱える詞であって、祖神の素性、部落の創始者並に勲功のあった神々や部落の縄張りに
関する協定事項などを含んでいる。

竹富町の登記事務は石垣島


竹富島にある先祖の土地についての事務手続きのために動くことにした。
竹富島は昔、竹富島が称えて誇っている西塘様のおはたらきで行政機関である「蔵元」を竹富島に置いていたそうだ。
でも不便だったので数十年ほどで石垣島に移され、以後石垣島にある。
ということで手続き等は、めんどくさくても、竹富島なのに石垣島に行かなければならない。
石垣市登野城にある那覇地方法務局の石垣支局へ電話で問い合わせをした。

竹富町役場は、石垣島の石垣市美崎町。
美崎町は、石垣港のすぐそばにある。
美崎町が飲食街として栄えたのは、昔は八重山の島々から船がひっきりなしに入り、人々の往来が多く港町して栄たそうだ。
というわけで、竹富島の事務のために石垣島に行かなくてはならない。

家系図


戸籍を取ったり、門中の家系譜から家系図を書いていこうとしている。
うちらの場合、門中の外だから、おおかた残っていない。
もっぱら、聞き書きや個人が書いた個人史からそのカタチを辿るしかない。

母方の祖母の実家の家系図を書いて叔父に送ったら、それだったらきみにこれをあげるよと。
送っていただいた。
まだじっくりは読めていないが、大方は他と大差ない軌跡だ。
そりゃそうだろう。
明治・大正・昭和戦中戦後と人生スタイルは限られていて、みんな似たりよったりだ。
特に竹富島の場合、まったくと言っていいほどに同じだ。
大抵は、島で小学校を出て、そのあとの教育を受けるために石垣島か台湾へ行く。
台湾で生活したり、戦後戻り、八重山で教師したり島に戻って暮らすとか、
それくらいで人生の選択肢は少なかったから。

今、三つくらいの家系図がだんだん枝が分かれていくようにどんどん伸びてきている。
困るのは、絡まっちゃってるんだ。関係が。


    私の書いている家系図や、聞き取りは、誰も書いてない部分だ。
    それはそれまで生きていた方の手前、言えなかった本物の父親だったり、本当の出所が明らかになってきつつあるから。

    門中のような立派なものをはじめとして基本的に沖縄の家系図は女性は書かない。
    ので、全然つかめなくなってしまう。
    沖縄返還前後あたりから書く人が出てきて、そのなかに女性が残す人が出てきた。
    画像の著者は、女性で元教師らしい。*主婦のようです


    今年に入ってからうれしいことに個人史が三冊ゲットできた。
    ますます家系図は枝分かれし、その枝は伸び続けていくのが追える。

    「八重山の舞踊と歌の将来への挑戦」


    竹富島出身の舞踊家「吉浜久枝」先生が、9月13日に石垣島石垣市民会館で踊りの会に出る。
    チラシが送られて来た。
    封筒を見ると、東京琉球舞踊会と印刷されていた。
    どうやら先生はそこに所属しているようだ。
    チラシの踊りは、「かしかき」
    *「かしかき」は小浜島の舞踊らしい

    先島諸島は昔、人頭税を取り立てられ苦しい生活を強いられてきたから琉球、首里に対していい思いを持っていなかった。
    八重山で島唄、島文化をやっている人のなかのスタンスとして紅型を着ない!など
    徹底的に首里・琉球に対して反骨をむき出しにしている方がおられる。
    そのくらいに、琉球である沖縄本島と先島諸島の温度差を感じるところもあった。
    今の若い人たちはどうだかわからない。
    オヤケ赤蜂のことを戦前の教育と戦後ではとらえ方がまった逆になってしまったらしいのだ。
    2014022213480000

    八重山での今の、オヤケ赤蜂評と戦中から教育を受け錦芳(きんぽう)氏(うじ)の流れをくんでいる人のまえでは、長田大司(ナータウーシュ)ナータウジを尊ぶように言い、オヤケ赤蜂のことなど口にできなくなってしまう。

    八重山と沖縄本島・琉球の微妙な位置関係がある。

    2014/10/22

    家紋(ヤーモン)


    竹富島のその昔は、長男が家を引き継ぎ、次男以降は家を出る。
    次男以降が家を外に作ると、島内に同じ姓が何件にもなってしまうので、家ごとに屋号を設ける。
    また、家ごとに「家紋(ヤーモン)」という家紋のような家の印を村番所の政策により届けていた。
    家判(ヤーバン)といい、その家の持ち物、家財道具、農具に印していた。

    2014/08/04

    沖縄返還前のパスポート

     私が幼いころ、両親と東京から3か月間沖縄・八重山へ行ったときのパスポートと本土から沖縄へ渡る際に出された身分証明書と予防接種の記録書。

    これが、当時の東京から沖縄へ行くときのパスポート
    内容はこのような
    身分証
    なかはこんなかんじ
    予防接種の証明
    なかはこんなかんじ
    荷物につけた札

    父の荷物の整理から出てきました。
    当時は、沖縄に行くときは、いちいち予防接種を受けていました。

    このときは、那覇まで船で行きました。
    これは普通なかんじで行った旅でした。この頃は、通貨はドルでした。

    竹富島の種取り祭に行き、石垣島の親戚のところへ寄り、あとは那覇の父の実家にしばらくいたそうです。


    当時(昭和42年)の頃は、竹富島の住居には、まだ電気の灯りがついてなかったそうです。何件かの親戚のお宅にまたがって泊まらせていただいたそうですが、夜になると真っ暗なので、みんな午後8時頃には寝ていたそうです。

    私は、竹富島の歴史とか親族・家系の流れを探求していこうとしていますが、実際の灯りがどうだったか?とか、その頃の社会とかはこういうところから推察できると思います。

    2014/07/07

    マラリア

    父方の祖母は、戦争中、マラリアにかかり苦しんだ。
    まず、高熱のため冷やし続けなくてはならない。つねに冷やすために水を流す工夫をした。見事に死の淵から戻った祖母。
    このマラリアは、どのような経緯を経て八重山にやってきたのだだろう。
    どうやら、犬が持てきたらしい。

    その昔、外国船が西表島に乗り上げたので、船を直して丁重にもてなしたとか。そのお礼として、犬を置いていったという。その犬にマラリアの菌がついていたのだか不明だが、この犬の出現後にマラリアが流行することになった。

    戦争中、強制疎開で西表に移動することになった学童。
    戦争で父の4年生時の担任の若い女性の先生が亡くなった。
    私は、昭和20年の5~6月頃に西表に空爆があったか調べたが、わからなかった。父に聞いた。「あー、それはね、マラリアで亡くなったんだよ」ということで、敵国の爆撃とかではなくてマラリアで亡くなったという。こういうことで、戦争中、空爆とか銃撃とかではなく、マラリアで亡くなった方がほとんどだったそうだ。
    石垣島の格安レンタカー

    2014/07/06

    竹富島移住計画

    今年二月に竹富島,石垣島へ行ったときに親戚に「こっちで暮らせば」と言われた。「えっ?」とびっくりしたが、どうやらその方がよさそうなのだ。
    今、現在、父の荷物を整理しているが、未解決な書類や一族についての謎が次々と明るみになってきている。

    まず、曾祖父が明治38年あたりにすでに終わった人頭税の役人職から一般人になって竹富島に寄留民として入った。その記録が、竹富日記にあった。
    ここまでは、誰もが知ることができる公の記録だ。

    曾祖父がこのとき購入した鰹節をつくるための鰹漁、工場のための土地が事務上放置されていた。

    その土地は、遺跡発掘等で沖縄県が長年管理していたが、平成8年あたりに管理が市町村に移ったため竹富町役場から連絡があった。
    その電話を受けた父が曾祖父名の土地の相続のために一時期動いていたらしい。
    ところが、複雑な家族構成のため相続に必要な書類集め、印鑑をもらうためには大変だったらしく結局途中で放り投げた。
    結局、今になって私がその書類を見つけ、相続できる私たち以外の石垣島に在住している親類にこのことを持ちかけた。
    ひとつはこれで片付きそうだ!が、母方の祖母の実家が、相続されていなくてそのままになっているので、こっちの相続の行方にかかわることになった。

    曾々祖母の生まれた嘉永の時代の改正前原戸籍からさかのぼって今、家系図を作成している。

    戸籍をていねいに見ていくと当時の結婚とか、家庭構成、それによって浮き彫りになる竹富島のいびつな社会が見えてくる。
    石垣島の格安レンタカー

        *画像は、お友達のお宅で本文とは関係はありません。
    人頭税時代である歴史的にいえば江戸時代の頃の八重山。人頭税がすべての基準になっていたそうだ。
    祖父が生まれたのは、人頭税をはじめとした島の役人ということゆえに石垣島から竹富島へ来た曾祖父。身の回りの世話をするという名目での賄い女となった曾祖母の関係があったからだ。

    で、竹富島の家の状況からみて、大所帯となると家の大きさのキャパからはみ出るので長男以外は、別に所帯を構えることになる。婿養子のくちがあれば婿養子になる。でも婿養子でもなく、所帯を構える場合は、屋号が別の家になる。

    実は、私の母方の祖母の実家は、女系だったため、ひとつの家に窮屈により固まって暮らしていたようだ。
    祖母の娘時代は、家に祖母の両親とおばあ様、叔母さん、従兄弟。それで長女である祖母は、早くに島を出て石垣島の医者の家に女中奉公として入った。嫁入りの話があって、昭和6年に東京へ出て来た。妹は、一時期東京へ姉を頼って出てきて仕事をしていたが、縁談で石垣島へ戻った。その頃、竹富島の祖母の実家では、おばあ様が亡くなり、従兄弟が結婚で家を出て、長男である祖母の幼少から身体が弱かった父親が亡くなる。祖母の母親は、私の母が生まれる頃、戦争が始まる前年に上京し2月の東京の寒さに耐えられず亡くなった。こうして祖母の家は下降線をたどる。が、沖縄は、家を継がさせるために継子をつけてとりあえず家督相続のかたちをとって家をつなげる。祖母の家は、祖母の叔父さんの息子に継いでもらうことになった。そこで名前も祖母の実家の名を名乗って奥さん、お子さんと暮らしていたが、42歳の頃脳卒中で急死した。それで奥さんは、家督相続はできないと返すということになって昭和40年代から以後そのままとなった。

    竹富島の空き家屋、空き屋敷はたいがいが、そんな感じなのだ。
    学業や文化的な暮らしを求めたりして離れていく家もあるが。

    私が、今さら竹富島へIターンしようというのは、そういうわけでほったらかしにされた先祖の地の供養のためなのだ。
    東京生まれ、育ちの私にとって辺境の地での暮らしは耐えられるか?
    でも、今なら竹富在住の親類も友達もまだ元気でいるし、種どり祭等で知人縁者が来てくれて会えるからなんとかなるんじゃないか?ということなのだ。

    2014/06/29

    東京竹富郷友会総会


    先月の5月25日。
    私は、二十年ぶりに行った。

    國學院大學たまプラーザキャンパス内にて第89回東京竹富郷友会が開かれた。
    大正14年、竹富島から上京した崎山用枝初代会長で嘉利勇士会として銀座(京橋)の蕎麦屋の二階で創立総会を開く。
    沖縄復帰後くらいまでは沖縄バッシングが強かった。沖縄八重山、竹富島から勉学のため、仕事を求めそして何よりも長男以外は家を分家していくため次男以降のほとんどは、石垣島や沖縄本島、九州、関西そして東京へと散っていくのであった。
    沖縄は昔、特異の存在とされていたらしい。

    今回の新会長のお父様が以前会長をしていたときに正式に「東京竹富郷友会」となった。
    竹富島は、その大昔、西塘(にしとう)様が八重山から初めて首里城に上がって職務を果たしたことから西塘様を称えている。
    西塘の名を用いて会の名称としたりと会の名も幾度も替わっている。
    竹富郷友会は四国にもあるらしい。それは戦争中、竹富島に在留した方々との固い絆で交流が続いていた。
    今回、会長となった瀬戸克氏のお父様は竹富島の蒐集館を開いた上勢頭(うえせど)亨氏の弟で以前会長職を務めていた。
    以前は、竹富島から上京した純然たる竹富人にて郷友会は行われていた。その各々家庭を築いてその子供たち二世。さらに三世。私は三世。

    2014/04/08

    安里屋ユンタ

    有名な安里屋ユンタの歌は嫌いです。それは・・・

    安里屋ユンタの歌は、その昔寛政11年に亡くなったクヤマという美女の話だそうだ。
    当時の役人の身の回りの世話をする「賄い女」に選ばれたが・・・妾になるという好条件を断った。それをたたえるような言い伝えになっているが、私の手元の資料ではそういうふうには書いてはいない。
    豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき兵を差し出せ。
    というのを島津経由に兵は戦さに馴れていないので兵糧米を出せとなる。
    が、琉球は工面ができなかったので島津に借りる形で納めた。
    島津は、貸しがあるのに琉球は島津の言いなりにはならない。
    こういうところが日本風の義理をたてるという考え方と、沖縄感覚のずれがあったのかもしれない。
    島津に納める貢物のためにそれから宮古と八重山は人頭税という税制度になっていく。
    琉球からの役人による税の監視役を島々に派遣していく。島々でも管理体制が出来上がっていく。
    人頭税は、頭数で決めていくのだが、そのうち人口の増減に関係なく定額人頭税になる。
    これによって八重山という島々の社会はぎくしゃくしていく。
    私たち子孫は、教科書や正式な記述に漏れた者たちなのです。
    「安里屋ユンタ」のクヤマはものすごい美人。
    琉球から命ぜられた新任の役人が石垣島から派遣させられてくる。その身の回りのお世話をする賄い女になれと命ざれる。
    賄い女の条件は、若い美女。身の回りのお世話というが、妾になるということだ。
    賄い女になると、本人と家族が賄い女となる三年間くらいは人頭税が免除か軽くなる。というわけで家族から賄い女が選ばれると家族はラクになるから喜ぶ・・・。島に派遣される役人は、だいたい三年間くらい、妻子は置いてこなくてはならない。
    そこで身の回りの世話をする者を島の方で用意する。本来は、50歳以上の男女か、15歳くらいまでの男子だったらしいが、それがだんだん役人の妾になる要素の若い美女になっていったらしい。で、安里屋ユンタの歌は、そういう妾の口を断ったことが美談として歌われているが、竹富島の多くは、クヤマのように妾に選任された人の子孫なのだ。だから私はこの歌を受け入れられない。

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    2014/04/05

    水の神様

     
    水の神様と呼ばれた百歳で亡くなった方が作った鳥居。
    桟橋やセメントなどを使って建造する職人の人がいた。
    竹富島では、百歳以上まで生きる人が多い。
    それぞれの方の功績は、もちろん記録にもなっているが、ほとんどが記憶の言い伝えでそのうち消えてしまい何だかわからなくなってしまう。記録が乏しいかもしれない。
    だから一族の経緯がわからなくなってしまいどうにもならない部分がある。
    今、私たちは何だかわからなくなってしまった何かを調べ辿っている。

    2014/04/04

    赤馬節

     
    沖縄の踊りというと「琉球舞踊」
    八重山には八重山民族舞踊がある。
    赤馬節は、琉球舞踊でいう座開きの御前風(ぐじんふう)の「かぎやで風」みたいな踊りなので、
    必ず、発表舞台の初めに組み込まれている。
    曲風、調子はおなじくらい。
    これは、利口な馬にまつわる逸話を歌ってる。
     
     有名な音楽の地でそれも天気のいい日なのに観光客がひとりもいなかった。石垣島の「馬見岩」という見晴らしのいいところにある赤馬節にまつわる地。
    馬がひとり淋しそう。
    八重山の民謡は、さびしさを含んでいるものが多い。
    賢い馬が飼い主から離されて再び出会って喜ぶというような歌。
    琉球舞踊もちょっと習ったことのある私は、歌とか、踊りの振り付けとか比較してしまう。
    沖縄本島と八重山がこれだけちがうんだけど・・・竹富の舞踊もハザマと仲筋で琉球舞踊と八重山の違いくらいの違いというか解釈とかスタイルが違うらしい。

    私は、先祖が西と東なのでみんな仲筋については詳しくない。あまりいいように言わない。私たち戦後世代は、もうそんなことはあってもないように言っている。なぜ、昔の人は、こだわるか?
    それも最近のじいさんたちまでも。それは戦前まで、畑を耕すことを競いあっていたらしい。徹夜しても畑を耕す。何かと競わせていいたらしい。仲良くするという前に負けないという意気込みが身に付いたのか。人は、そのとき、そのときの時流に合わせて人格形成されていく・・・。というか、習慣がつくるというか。
    赤馬節も聞いているとなんだーというようなストーリーなんだけども当時の人にとっての感動はすごかったんだろう。

    空港に行く道沿いにあるのでこれを読んだ方で石垣島へ行く方は寄ってみてはいかが?石垣島、八重山の人で赤馬節知らない人はいない。

     

    2014/04/03

    嘉善姓

     
     嘉善姓の墓というところへ行った記録。この墓は、石垣永将が外国の難破船を助けてキリスト教になった最初の人で見せしめとして殺されたということらしい。
    私、実は足が悪いので丘の上にある碑まで車で登ってもらった。この画像の隣の奥に墓というか区切られている場所がある。数年前まで荒れていたそうだ。
    私たちの代で気づいた人、わかっている人たちが守り伝えなくてはいけない。
    こちらは、桟橋にぐっと近い、街中にある石垣永将が処刑にあった地。今はここの左手前の家の人が掃除したり守ってくれているそうだ。
     
    嘉善姓について書くのは、手が震える~。
    ばれるから・・・。
    八重山の昔の役人。八重山は三氏(さんうじ)いたらしい。
    *嘉善(かぜん)氏・・・名前の最初「永」の字・・・永将とか、永・・・
    *梅公(ばいこう)氏・・・「孫」・・・この字が名前についている人はその一族だとすぐわかる
    *錦芳(きんぽう)氏・・・「用」・・・この字が名前についている。
     
    ところが、この血筋であっても苗字が違い、さらには、この共通の文字が名前にない。もしくは、女に生まれると、血筋のしるしとなる手がかりが何もないのだ。
    私たち、竹富島の子孫は、今これを追っている。というか追っているのは私。
    この間、梅公氏の血筋の方から情報をいただいた。私の手元にあるのは錦芳氏の系譜の写しというか、大掛かりなコピー。
     
    さらには、そのコピーに漏れているうちらのじーちゃんの名の書き込みがされている。
    これは、フチャーヤー(黒島家)の詳細な家系図を書いた人みたいに手がかりを生前集めていたおじさんの残したもの。ふたりともたまたま司法書士をしていた。
     
    三氏というのもうら覚えなので、ちょっとちがうかもしれない。
    錦芳氏と梅公氏は明確。というのは、八重山にいた役人でも位がいろいろあるらしい。
    とにかく、おやけ赤蜂までさかのぼるので。それも島々での記録保存がまちまちだし、八重山の記録の廃棄、処分のことについてもいろいろ書かれていた資料もあるので・・・。