2017/11/07

種子取祭2017.10.30第一日目、玻座真村の奉納芸能


石垣島の登野城の親戚の家から船で竹富島に渡り、竹富島の親戚の家に荷物を置かせていただいてから種子取祭会場となる世持御嶽へ。
最初に神司(かみつかさ)の女性たち、役員とつづきます。

竹富島は二つの村に分かれていまして、玻座真村と仲筋村。一日目は玻座真村の芸能。
二日目が仲筋村の芸能ということです。
現在は、玻座真村は西部落(いんのた)東部落(あいのた)と二つになっています。
いつ玻座真村が二つになったのか?けっこう最近のことで、人によっては戦後だと言い、ある人は明治、ある人はその前からさーときっちりと記憶していないというのが竹富流ですよね。


2017/11/06

2017種子取祭

今年も待ちに待った「種子取祭」。

種子取祭の奉納芸能は、毎年、10~12月の間の頃の庚寅の日、辛卯の日に行われます。今年は10月30,31日で平日だったためお休みが取りにくい会社員の方々は来れないみたいで昨年より観客が少な目だったようです。

前日、前々日と台風で飛行機の運行に多少の影響がでてました。が、やっぱり種子取祭だねよく晴れました!!
こちらは早朝6時の様子。神司と役員が御嶽屋(オンヤ)に拝む。



2017/11/05

沖縄絵葉書



沖縄の昔から集めた絵葉書です。
今ではもう手に入らないような絵葉書もあります。

2017/10/29

種子取り祭、世乞い


今年は10月30•31日に執り行われる種子取り祭の芸能奉納を観に行く最中の機内Wi-fiから書いています。

種子取り祭一日目終わってから「世乞い(ユークイ)」という各家々を白いハチマキをしたユークイ参加者は、ユークイが始まる根原家の座敷に上がります。
お酒、ニンニクなどが振舞われ古くから伝わる伝統に則った決まった唄、文言を唱え儀式となります。
家の中での行いが終わると家さきのにわにて唄など大勢で。

終わると次なる家々に向かい一晩かけて
まわります。
実際には数件。
やめてしまってる家もあるのですが、島の決まった役目を担っている家では毎度行われるそうです。
根原家は、ねはら神の人ということで
「ネーレカンド」と呼んでるらしいです。
ユークイは、向かい入れる家側と訪れる側とあるそうです。
私は、去年はひいひい爺さんの赤山家(ハーヤー)の向かい入れる側のなかに混じりました。

ユークイは、その家、家まわりをする人のなかに亡くなった霊も混ざって行ってるというていでやってるわけです。
私は、信じてます。ともすれば霊が見えちゃったりしますから。
びびりたくないのでそこにはフォーカスせず普通にやりたいと思います。

2017/10/03

竹富島を描くグラフィックデザイナー

2017.10.1に武蔵小杉のホテル精養軒にて開かれた敬老会にて披露されたグラフィックデザイナーの作品。
 写真みたいに精細に描かれた作品。
ほかにも数点ありましたが、著作権等ありますし、
ご用命の際は、東京竹富郷友会の事務局からお問い合わせください。
 作品制作したクリエイターの玉盛健さん
経歴と受賞歴等々。
東京竹富郷友会。
こちらで確認、連絡願います。

2017/10/02

第38回、敬老会

会場で配布されたパンフレット

当日の様子を撮ったセレクト画像&動画
今回、初めて行きました。
東京在住の祖母が参加する頃、昭和53,4年あたりから東京でもやるようになったそうです。
この開催のパンフは大方、保存していますので追ってこのブログ内で公開していきたいと思います。

私は、先祖がほぼほぼ全員竹富島の血筋ですので、竹富島の系図作成を少しずつはじめています。
このブログ内で書いていますが、大家(現在の大谷家)、宮良家、大山門中写し持っています。
わかっているものをつなげて前新家。
見たことないけどけっこうすごいと噂の黒島家の系図。
で、いちおう一部写しを持っている東玉盛家、途中だが始祖が判明している上勢頭家、
本に一部書かれている現在の三島家の元の前三盛家。
請盛家。
で、私がたどっている前請盛家、仲盛家、内盛家。
今回、竹盛家、家系を追っているという私と同じようにやっている西盛家の方とお会いしました。
動画のなかで三人で撮ったものがあります。

竹富島は全部つながっているから「兄弟者(きょうだいしゃー)」ということになっているとのこと。

今回の敬老会でインタビュー受けている国吉さんが、30.31日に開かれる竹富島での種子取祭でホンジャーをやると語っている場面がありました。


2017/08/17

東京竹富郷友会、役員会記録

昭和43年~45年にかけての東京竹富郷友会の役員会のノート。
A5サイズの昔の大学ノート。



当時の役員会は、個人宅に集まっていた。
郷友会の総会会場について、地域の公民館等の舞台を借りて行うが。
利用料が高いなどのこと、演芸の練習、役割分担等が書かれている。
竹富島から上京してきた人の歓迎会が度々開かれていた。
また、このノートには会と並行して一部の有志がやっていた頼母子の名記、払い込み金額。落札者等の記録がされていた。

ノートの記録の筆跡から数人によって書かれたものということがうかがえる。
表紙の判で押された「東京竹富郷友会」の上には当時の会長の瀬戸家の住所。下には電話番号。この当時の瀬戸家自宅は、まだアパートのようなところだったと記憶している。
数回行ったが私は当時幼児だったので記憶はあいまいだ。

2017/05/31

第92回東京竹富郷友会総会

第92回東京竹富郷友会の総会が北とぴあにて行われました。

今回は、前回より会場が都心よりで駅と直結してる利便性などなどでちょっと去年より参加者多め…とはいっても年々参加者は減っています。
最後の巻き踊り
久々に会った親戚と
めちゃうまかったぱフォーマンス舞踊を披露された東民雄さんと

東さんの舞踊、パォーマンスのレベルの高さは、竹富島関連の方は子供のころに種子取祭で踊ったり、郷友会で「じっちゅ」にかりだされたり、小さなときに「じゅんさーみ」踊らされたりするので誰でも踊りを経験しているので、東さんの舞踊(厳密にいうとまね)のうまさがわかるのでとくに女性たちはポーとして見つづけていました。
兄弟踊り
竹富島出身者でなく竹富島ファンとして演奏してくれた「まいじっちゅう」
沖縄でも何でもないのに好きになってくれて舞台に出てくれるなんてうれしいです。
会場様子

元会長富野芳江乾杯!
じっちゅ
今回の総会は、特にゲストはなく、年々、会員、出席者が減っていくさまや竹富島の社会での位置関係や島意識の変化など感じる空気ありました。

2017/05/01

東京竹富郷友会総会の第92回ご案内

毎年5月~6月くらいに開かれる竹富郷友会の総会。
総会・演芸等の懇親会のご案内が送付されました。
届いてない方、登録しているのに案内がないという方は、
現竹富郷友会大谷喜久男会長に連絡いただくか、当日5月28日(日)13:00~
北区王子の北とぴあ13階飛鳥ホールに直接お越しくださいませ。
年会費・懇親会費の登録お支払いください。
演芸飛び入り参加歓迎ということです!


東京自由が丘の睦美会に会長夫妻が見えまして総会の宣伝をたっぷりしていました。



2017/04/25

水中眼鏡

これは昭和15年~22年くらいの間、竹富島で育った父の使っていた水中眼鏡。
廃材や木を削ったりその辺にあるモノを組み合わせて作ったそう。
もともとモノのない沖縄の離島で戦争でさらにモノがなく、工夫だけがたより。
シンプルだがよくできている。
ゴムがけっこういいものなので、当時のモノだかは定かではない。
ただ、こんなものだったということで紹介することにした。
戦争中、若い大人のいなくなった竹富島。
遠い海に行った兄さんや父親、叔父さんたちを思いながら
割り当てられた土地に芋を植え食い扶持を補っていたという。


むーゆんなー

父の家庭は、よその家とは事情が違って、父親がいなかった。戦争に行ったのではない。
父は戦争直前に当時、日本統治だったサイパンから戦争になるということで身重の父の母親、妹と弟と四人だけ日本に強制的に返されたのだ。
ただし父の父親は、現地に残らなければならなかった。
それは・・・当時、現地の日本の逓信省の職員でモールス信号など発信したりする業務があるので残されたのだという。

父親のいない家庭で四人の子供たちは、手探りで畑をやる。
芋を育て収穫する際、未成熟の芋が残る。それが「むーゆんなー」
金がなく、あてにしていた親戚はあてにならず子供が家を支えなくてはならなかったとき、幼い父たち兄弟はまず畑に残されたむーゆんなーを拾うことからはじめたのだという。

2017/03/28

「あちょうろー」

 この風呂敷は、40数年前にある人が配った記念品。
仲盛清さんが上京したことを記念して作った風呂敷。
人頭税が終わって納税が物納から現金納税となった頃、竹富島の人々はお金を持ってなかった。

仲盛の清さんは、島民から豆やら織ったミンサーの帯などを預かって石垣島へ持ち寄りお金に換えるという仲買業をやっていた。

あちょうろーとは、仲買などの商売人のことを言うらしい。

1965年というとけっこう最近で上京がそれほど難しくない頃だったが、この頃の清氏は、80代になっており、竹富島から東京へ来れたことがよほどうれしかったのだろう。
わざわざ名入れの風呂敷を配ったりすることに当時の人にとっての上京の価値が読み取れる。