2014/04/08

安里屋ユンタ

有名な安里屋ユンタの歌は嫌いです。それは・・・

安里屋ユンタの歌は、その昔寛政11年に亡くなったクヤマという美女の話だそうだ。
当時の役人の身の回りの世話をする「賄い女」に選ばれたが・・・妾になるという好条件を断った。それをたたえるような言い伝えになっているが、私の手元の資料ではそういうふうには書いてはいない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき兵を差し出せ。
というのを島津経由に兵は戦さに馴れていないので兵糧米を出せとなる。
が、琉球は工面ができなかったので島津に借りる形で納めた。
島津は、貸しがあるのに琉球は島津の言いなりにはならない。
こういうところが日本風の義理をたてるという考え方と、沖縄感覚のずれがあったのかもしれない。
島津に納める貢物のためにそれから宮古と八重山は人頭税という税制度になっていく。
琉球からの役人による税の監視役を島々に派遣していく。島々でも管理体制が出来上がっていく。
人頭税は、頭数で決めていくのだが、そのうち人口の増減に関係なく定額人頭税になる。
これによって八重山という島々の社会はぎくしゃくしていく。
私たち子孫は、教科書や正式な記述に漏れた者たちなのです。
「安里屋ユンタ」のクヤマはものすごい美人。
琉球から命ぜられた新任の役人が石垣島から派遣させられてくる。その身の回りのお世話をする賄い女になれと命ざれる。
賄い女の条件は、若い美女。身の回りのお世話というが、妾になるということだ。
賄い女になると、本人と家族が賄い女となる三年間くらいは人頭税が免除か軽くなる。というわけで家族から賄い女が選ばれると家族はラクになるから喜ぶ・・・。島に派遣される役人は、だいたい三年間くらい、妻子は置いてこなくてはならない。
そこで身の回りの世話をする者を島の方で用意する。本来は、50歳以上の男女か、15歳くらいまでの男子だったらしいが、それがだんだん役人の妾になる要素の若い美女になっていったらしい。で、安里屋ユンタの歌は、そういう妾の口を断ったことが美談として歌われているが、竹富島の多くは、クヤマのように妾に選任された人の子孫なのだ。だから私はこの歌を受け入れられない。

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2014/04/05

水の神様

 
水の神様と呼ばれた百歳で亡くなった方が作った鳥居。
桟橋やセメントなどを使って建造する職人の人がいた。
竹富島では、百歳以上まで生きる人が多い。
それぞれの方の功績は、もちろん記録にもなっているが、ほとんどが記憶の言い伝えでそのうち消えてしまい何だかわからなくなってしまう。記録が乏しいかもしれない。
だから一族の経緯がわからなくなってしまいどうにもならない部分がある。
今、私たちは何だかわからなくなってしまった何かを調べ辿っている。

2014/04/04

赤馬節

 
沖縄の踊りというと「琉球舞踊」
八重山には八重山民族舞踊がある。
赤馬節は、琉球舞踊でいう座開きの御前風(ぐじんふう)の「かぎやで風」みたいな踊りなので、
必ず、発表舞台の初めに組み込まれている。
曲風、調子はおなじくらい。
これは、利口な馬にまつわる逸話を歌ってる。
 
 有名な音楽の地でそれも天気のいい日なのに観光客がひとりもいなかった。石垣島の「馬見岩」という見晴らしのいいところにある赤馬節にまつわる地。
馬がひとり淋しそう。
八重山の民謡は、さびしさを含んでいるものが多い。
賢い馬が飼い主から離されて再び出会って喜ぶというような歌。
琉球舞踊もちょっと習ったことのある私は、歌とか、踊りの振り付けとか比較してしまう。
沖縄本島と八重山がこれだけちがうんだけど・・・竹富の舞踊もハザマと仲筋で琉球舞踊と八重山の違いくらいの違いというか解釈とかスタイルが違うらしい。

私は、先祖が西と東なのでみんな仲筋については詳しくない。あまりいいように言わない。私たち戦後世代は、もうそんなことはあってもないように言っている。なぜ、昔の人は、こだわるか?
それも最近のじいさんたちまでも。それは戦前まで、畑を耕すことを競いあっていたらしい。徹夜しても畑を耕す。何かと競わせていいたらしい。仲良くするという前に負けないという意気込みが身に付いたのか。人は、そのとき、そのときの時流に合わせて人格形成されていく・・・。というか、習慣がつくるというか。
赤馬節も聞いているとなんだーというようなストーリーなんだけども当時の人にとっての感動はすごかったんだろう。

空港に行く道沿いにあるのでこれを読んだ方で石垣島へ行く方は寄ってみてはいかが?石垣島、八重山の人で赤馬節知らない人はいない。

 

2014/04/03

嘉善姓

 
 嘉善姓の墓というところへ行った記録。この墓は、石垣永将が外国の難破船を助けてキリスト教になった最初の人で見せしめとして殺されたということらしい。
私、実は足が悪いので丘の上にある碑まで車で登ってもらった。この画像の隣の奥に墓というか区切られている場所がある。数年前まで荒れていたそうだ。
私たちの代で気づいた人、わかっている人たちが守り伝えなくてはいけない。
こちらは、桟橋にぐっと近い、街中にある石垣永将が処刑にあった地。今はここの左手前の家の人が掃除したり守ってくれているそうだ。
 
嘉善姓について書くのは、手が震える~。
ばれるから・・・。
八重山の昔の役人。八重山は三氏(さんうじ)いたらしい。
*嘉善(かぜん)氏・・・名前の最初「永」の字・・・永将とか、永・・・
*梅公(ばいこう)氏・・・「孫」・・・この字が名前についている人はその一族だとすぐわかる
*錦芳(きんぽう)氏・・・「用」・・・この字が名前についている。
 
ところが、この血筋であっても苗字が違い、さらには、この共通の文字が名前にない。もしくは、女に生まれると、血筋のしるしとなる手がかりが何もないのだ。
私たち、竹富島の子孫は、今これを追っている。というか追っているのは私。
この間、梅公氏の血筋の方から情報をいただいた。私の手元にあるのは錦芳氏の系譜の写しというか、大掛かりなコピー。
 
さらには、そのコピーに漏れているうちらのじーちゃんの名の書き込みがされている。
これは、フチャーヤー(黒島家)の詳細な家系図を書いた人みたいに手がかりを生前集めていたおじさんの残したもの。ふたりともたまたま司法書士をしていた。
 
三氏というのもうら覚えなので、ちょっとちがうかもしれない。
錦芳氏と梅公氏は明確。というのは、八重山にいた役人でも位がいろいろあるらしい。
とにかく、おやけ赤蜂までさかのぼるので。それも島々での記録保存がまちまちだし、八重山の記録の廃棄、処分のことについてもいろいろ書かれていた資料もあるので・・・。
 
 

2014/04/02

寝たきりはいない?竹富島

竹富島に寝たきりはいない!!長寿の島だと言われている。
長寿はうそではないが、本当は寝たきりな人だらけ。
医療設備が充実していないので石垣島の病院や高齢者の施設か、子供と暮らすために島を出ていく。
親戚のおばさんがいる高齢者施設。
石垣島の八重山厚生園。ここ最高。部屋から海が見えて。べつに竹富島で死ななくてもここでもよさそう!素敵な施設。

竹富島は、いつも無医村。
竹富町史の記述にもあるとおり、石垣島から医師が来て診てくれていた。
寝たきりがいないのは、寝たきりになれない。寝たきりになったら出て行くしかないから。観光客や部外者の目に触れにくいのかも。
高齢になった人を誰がどう看ていくか問題。親の介護のため島に戻るか、石垣島か那覇、東京へ連れ帰る場合が多い。診療所程度の医療施設だとどうにもならない。
石垣島でばったり出会った竹富島の中学生。歯医者の通院のために石垣島まで来てついでに買い物をして帰るらしい・・・。買い物も病院もパーマ屋もデートも島の外にな
んだろう。

竹富島の霊柩車が格納されている。ここ10年使っていないという。
えっ、誰も死なないの?じゃなくて、死ぬのは石垣島だから。
毎年、毎年、長寿の祝いだらけで賑わっている?というか高齢社会の先進地。
竹富島の高齢者は、ぴんぴんしている。もともと身体もハート強いのか?
都会のうっとうしさやしがらみから解放された人だけが暮らしてるのかも。

霊柩車格納場所自体が素敵。

高齢者の施設。ここの裏には、百歳を迎えた人の碑が立ち並ぶ。特別枠で竹富人ではないが、きんさんぎんさんの碑と木も植わっていた。

ここで集い、お得意のゲートボールだとかグランドゴルフをやる。
歌ったり踊ったり・・・。
竹富島でここの参加が出来ないほどの高齢になったときには石垣島へ・・・。

不老不死の島みたいに思わされているかもしれない。そんなことはない。
でも親戚のおじさんとおばさんは、死ななかったらどうしよう~とかすごく長く生きたらどうしよ~。というへんな悩み事を言っていた。

島に住めばパラダイスというわけでもなさそうだけど、不幸では絶対ない。
長寿の人、島で生きる人はきちんと役目を果たすために生かされているのかもしれない。

 

2014/04/01

竹富町史

「私の祖父のことを調べています」
と言って竹富島を歩いて回ると、知った顔の人に会って挨拶して「めずらしい人がいるさー」と。
西部落に住んでいる人は勢いがあるタイプの人が多い。
東京に長らく住んでいた方の家に寄ったら、
竹富町史に
「あんたのじいさんが載ってるさ」ということでこの本を買うことにした。

それは竹富島の昔の農具から何から何まで取っていて蒐集館に売っていた。
これは、当時子供だった上勢頭亨さんが集めた。大人たちが燃やしていた村日記などを着ているもの間に隠して逃げた。そんな積み重ねが今の蒐集館。
それを現代文に読みやすいように編集した人その人が教えてくれたのだった。
それは、明治時代の人頭税が終わってそれまでの島の税制度が変わった頃のことが書かれていた。
曾曾祖父の名、曾祖父、母方の祖父の出生の届まで確認できた。
でも、これ以前の記録は残っていない。
これによるといついつ、役人が島に来たり、医師が来て診てくれたなど細かく記されていた。
その他に私の親戚の方々についても聞きまわった。