2015/06/27

東京竹富郷友会の発足


大正14年に東京、京橋、現在の中央区八丁堀付近の「田中屋」というお蕎麦屋さんでスタートしたと聞いていた。

だいたい大正10年あたりから上京する者がではじめ、大正14年時には二十余名が東京にいたことになる。

関東大震災が大正12年の9月1日に起こった。
この震災によって全国の支援金・支援の会「同潤会」が建てた同潤会アパートに住んだ者がていどんにもいた。

この頃、目黒あたりで事務所を置いていたが京橋に移したという。

東京竹富郷友会の今は亡き、もしくわ現役を退いた方々の残した資料から当時を察している。

個人的に話を聞くと、親戚関係ならではのことや内輪だけで流れていた情報もある。もちろん資料には記載はない。

郷友会の発端は、嘉利勇士会という航海安全を祈ったカリユシにちなんだものらしい。

初代の会長は、崎山用枝。
それは一番年長からだという。

昭和の戦争前にかなりがんばって会を発展させた。
「曙光」という月刊誌をつくったりと・・・。
でも南洋に行く者、満州へ行く者と状況は変化の連続だった。

昭和35年の創立35周年記念行事の際には、民俗学の柳田国男、早大の本田安次、画家岡本太郎らを招待したそうだ。

柳田国男、本田安次氏を総会に招いたのは現会長のお父様の瀬戸修氏。

2015/06/10

昭和40年代の東京竹富郷友会総会は・・・



昭和40年代の東京竹富郷友会は・・・

現会長の瀬戸克氏のお父様が会長や幹事等をやられていたころ。
瀬戸克会長は、テレビ関係の仕事をしていた。
郷友会ではおおかた余興の部の司会をしていた。

もう、当時の事を知る人は少なくなった。

俳優・タレントの野呂圭介氏が看板持って、ヘルメット姿で理不尽となった状況の中に飛び込んで来て「どっきりテレビです」とその場を収め笑いで立ち去る元祖どっきりテレビ。

郷友会総会の最中に野呂圭介氏がお決まりのスタイルで登場!
何も聞かされていない総会参加者たちで場内が沸いた。
そういった斬新な企画を取り込んだのが瀬戸克会長だった。

沖縄返還前後で、沖縄が、八重山が東京に近くなり始めた頃のことだった。


2015/06/09

第90回郷友会



2015.6.7(日)
王子の「北とぴあ(ほくとぴあ)」にて
午後1時よりさくらホールにて踊り・狂言の記念公演

午後5時より13階のホールに移動して東京竹富郷友会を開催。

今回90周年記念事業ということで盛りだくさんで八重山の郷友会という郷友会が参加くださいました。

竹富町長と撮るシーン
 八重山民族舞踊七峰会 吉浜久枝先生


今回、90周年ということで記念事業企画として公演会を大きくやったわけですが、そのあたりのことを現会長瀬戸克氏に直接伺いました。
それと戦後の郷友会の足取り、舞踊の継承の流れ等を吉浜先生に少しだけうかがったことはの次回のメールマガジンで。