大正14年に東京、京橋、現在の中央区八丁堀付近の「田中屋」というお蕎麦屋さんでスタートしたと聞いていた。
だいたい大正10年あたりから上京する者がではじめ、大正14年時には二十余名が東京にいたことになる。
関東大震災が大正12年の9月1日に起こった。
この震災によって全国の支援金・支援の会「同潤会」が建てた同潤会アパートに住んだ者がていどんにもいた。
この頃、目黒あたりで事務所を置いていたが京橋に移したという。
東京竹富郷友会の今は亡き、もしくわ現役を退いた方々の残した資料から当時を察している。
個人的に話を聞くと、親戚関係ならではのことや内輪だけで流れていた情報もある。もちろん資料には記載はない。
郷友会の発端は、嘉利勇士会という航海安全を祈ったカリユシにちなんだものらしい。
初代の会長は、崎山用枝。
それは一番年長からだという。
昭和の戦争前にかなりがんばって会を発展させた。
「曙光」という月刊誌をつくったりと・・・。
でも南洋に行く者、満州へ行く者と状況は変化の連続だった。
昭和35年の創立35周年記念行事の際には、民俗学の柳田国男、早大の本田安次、画家岡本太郎らを招待したそうだ。
柳田国男、本田安次氏を総会に招いたのは現会長のお父様の瀬戸修氏。
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