2015/12/19

ハーヤー

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竹富島は、ある時期からまちなみ保存指定というきまりにおいて本来は昔ながらの建築でしか家屋は建てられない。
 でもこの階段を上って
二階建てのコンクリートつくりのそこは・・・
カフェ

竹富島の白砂の地面。おしゃれモダンな店内内装。まちなみ保存のきまりを施行するずっと以前に建てられたのかもしれない。
今年、沖縄本島でいうカジマヤー、竹富島ではマンダラ―の97歳のお祝いをした赤山喜介さんは、赤山だが、赤山家の直系ではない。それは、竹富島独特の家、家系の構成にある。家を継ぐために男の子がいない場合は、婿をとる。だから喜介さんは婿養子に入った。赤山家から私の高祖父は仲盛家に婿養子に入った。たぶん次男か三男だったのだろう。赤山家の直系の男性は、みな背が高くて今で言うイケメン。泡盛のラベルに印刷された喜介さんはとてもハンサムだけれど、赤山家の男前の雰囲気とはちょっとチガウみたいだ。戦前、満州から東京にやって来た赤山家の直系の人。みな背が高かったそうだ。赤山家は、竹富島に辿り着いた平家の一族ということ、いったいどういうことなのか?上勢頭亨さんが書き残した記録や、昔の方々から聞いて集めた情報から、さらには東京の大学の研究者やら、資料から真実をくみ取り、先祖の果たせなかった思いや伝えたいことを解放し供養していきたい。

2015/12/13

八日会と睦美会の発足

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上京した竹富島出身者で作った組織に東京竹富郷友会がある。郷友会の大組織のなかに有志で会が結成された。
「八日会(ようかかい)」毎月8日に集まることとしたので八日会と命名した。沖縄では、模合という相互扶助の精神からメンバーを募り毎月例会をし金を積み立てそこから毎月一人がまとまった金額を引き出せるシステム。沖縄ではたいていの人が加入している。※その昔、南洋に沖縄から多くの移住者が渡った。そこでもいくつもの模合があったそうだ。八日会はどちらかというと個人事業主の人が多く、そうとうの積立金があって、そこから引き出したり、余剰金の配当金や旅行、ホールなどの会場を借りてのパーティーなどをやっていた。会は、十数年前に解散。在籍したほとんどの人は亡くなってしまった。存命中の人は施設に入っている高齢者や認知症になってしまった私の父くらい。八日会は、ある野心を抱いた人のおおいなる思いから展開された。それは、私の大伯父で東京竹富郷友会の19代会長を務めた花城永勝(えいしょう)
昭和50年に亡くなった。竹富島で生まれ、当時の尋常小学校を卒業すると台湾に渡り金物屋の丁稚になる。昭和初期に東京に移る。現在の世田谷区太子堂で新婚生活がはじまった。当時、沖縄を中心に日本統治下の南洋群島への移住者を募っていた。南洋群島の郵便局員勤務のための逓信省の試験に受かり南洋に渡った兄の後を永勝も追い南洋に渡った。昭和6年のことだった。そのときに妻子は竹富島に戻っている。単身で行ったのかもしれない。でも戦争前の昭和15年には妻子は東京へ移住していた。前後するが、昭和12年、日中戦争が起こる頃に台湾に渡っている。そして海南島へ日本軍の基地整備の作業員として過ごし、「第二次世界大戦がはじまりそうだ!この戦争がはじまったらたいへんなことになる。日本は負けるかもしれない」という内容の手紙を妻子に送っている。
当時の海南島は、韓国の刑期中の者、中国からかき集められた若者らに整備して基地やら飛行場をつくるなどに躍起だった。永勝の幼い頃から友人で同時に海南島に行っていて、その後八日会の会長になった浅井秀人氏が手記に通信設備の工事を行っていたと書いている。戦後、多くの復員と共に永勝も海南島から台湾経由で戻る。戦後の東京竹富郷友会は、世田谷区の太子堂で集ったという。おそらく永勝の家あたりが活動拠点として集まりやすかったのだろう。そうやって精力的に活動して昭和38年の頃に永勝は東京竹富郷友会の会長に就任すると同時に模合をやろうと提案する。それが八日会発足となるが・・・。竹富島幼少期から仲良しで一緒に海南島時代を過ごし無事帰還した唯一無二の友と仲間割れとなり、自分が発起人として立ち上げた八日会をすぐに脱会してしまう。でも同時並行して睦美会が立ち上げられていてそこの発足メンバーに永勝の名前が掲げられていた。永勝にとって八日会は、友達や外側の人との交流。睦美会は、遠縁の親戚らがいた。こちらのほうが居心地がよかったのしれない・・・。いや、もっと複雑な何かがあったに違いないが、当時の関係者がほとんど亡くなってしまったのでもうわからない。私はこういう背景を知っての睦美会参加となっている。現在の睦美会員で永勝のことをよく知る人はもういない。

2015/12/10

お蚕を伝えられた

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30年ほど前の竹富島の今現在は民宿を営んでいる方が空き地で蚕を飼っていた。

2014年に世界遺産になった富岡製糸場から、昔招聘して蚕からの絹糸のやり方を覚えたのだった。これは、細原徹著の筆の一里塚より。
沖縄の八重山の島々まで回って繭の技術を伝えていた。

2015/12/07

たぶん戦後直後の与那国島

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これは父のアルバムにあったもの。詳細は不明。
戦後の与那国島で撮られたものだと推察する。なぜ、与那国島かと思うのか? それは、竹富島で父たちが写真を写すような余裕はなかったから。父は、父の親私からすると祖父が一家を引き連れて与那国島へ渡ったのだ。この写真の場面によく似た写真や情報がつまった本がある。それは、戦前戦中戦後の与那国、沖縄で密貿易をしていた密貿易の女王夏子。この本に書かれている時期に父は与那国島の中学校へ通っていた。そうとう賑わっていたそうだ。電気が通じている時間をみはからって祖母が豆腐を作り、長女が小学校への登校前に久部良まで売りに歩いたという。祖父は、戦争が終わって帰ってきたもののろくに畑をやれないのでいつも飲みに歩いてそうだ。でもこの異常な状態は長くは続かず、あっという間にみな島を離れて行ったそうだ。本に書かれていたドル紙幣、B軍票、A軍票などの通貨の無法地帯は、父は子供だったので手にすることはなかったが、それは沖縄本島の糸満に着いてから通貨によるねじれを味わうことになる。この件についてまた資料を集めていきたいと思う。

2015/12/03

竹富島長寿「富本達子」さん

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長寿県の沖縄。竹富島も長寿の島。
竹富島の高齢者センター。
裏は、百歳超えをした高齢者の記念碑と記念樹がたくさん植わっている。
富本達子さんの百歳の碑
富本家のことを書いた一族史。
上勢頭家に(童名:カンツ)生まれ、前豊見本(まえとみもと)家に嫁ぎ富本達子として生涯を過ごす。
画像は、JTAより
このおばあが、東京にしばらく居たことがあって私はお会いしたことがある。とても小柄なかわいらしい人だった
カジマヤーの祝いのときの記念に配られた。富本家は、珍しいことから発展した家である。富本達子さんは、人頭税がまだ施行されていた明治31年に生まれ平成10年(1989)に亡くなった。達子さんの生きた竹富島の時期が一番変化に富んだ時期だった。学校教育がはじまったり、人頭税が終わったので納税のスタイルが大幅に変わった。大正時代まではまだ通い婚だった。多くの人が台湾に渡り。南洋へ渡って行き。戦争に多くの人が出ていった。戦後、南洋・台湾・戦地・満州と続々と戻ってきた。そのときの竹富島はたいへんな人口密度が濃くなった。田畑から採れる作物と人口問題で、すぐに多くの人が島をあとにしていくことになる。

2015/12/02

サングルロ

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種子取祭で踊られる謎めいた踊り「サングルロ」
父の友達で仲筋村の人が書いた仲筋の芸能にも書かれている。人頭税は15歳からだったので当時は年齢をごまかしたかった。当時の服装は下着をつけなけい。子供ぽく身体の成長がおそければ15歳に達していないとして押し通したかった。サングルロの踊りのなかでゴロゴロと転がりながら舞台からはけるときに着物のなかがチラ見できるときに身体の成長度合いが図れる・・・ということから15歳未満の判断材料になる。
この不気味な風貌は「とうもろこし」を表しているらしい。沖縄は、台風が多いのと干ばつ等で気候が安定しない。暑さ・湿気で食物保存ができにくいのでいつも食糧難状態。なので神に恵みを乞う儀式や祭りが多い。

竹富島は、六つの御嶽で拝む女性の神司(カミツカサ:通称ツカサ)がいる。昔、仲筋村の唐マイチという司が、当時は、船旅の安全のために神司が乗り合わせた。そのころに船旅中で中国に留まる出来事があった。その滞在中に見つけたよく育つトウモロコシの苗を陰部に隠して持ってきた。そういういきさつからトウモロコシは神様へのお供えにはしていない。踊りの意味はよくわからないが600年続く種子取祭で守り披露され続けられるのには意味やしかけがあるのかもしれない。

2015/12/01

石垣島、竹富郷友会あずま会

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竹富島の人頭税が解かれ教育制度が始まり、移動が自由になると四ケこと石垣島に多くが移住。これは、竹富島の玻座真村の東地区だけの記念誌。
元小学校の教諭だった親戚のおじさまが編集。相当困ったらしく広告欄にかなり偏った情報が・・・家族の名刺的なもので埋まっていた。仲筋会もあるのですが、西地区(いんのた)の記念誌は見たことないので今度あたってみようと思う。

2015/11/30

戦争中の竹富島

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戦争が始まることになったので南洋から竹富島に移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の人が石垣島、沖縄本島、九州、東京、満州、台湾へ移住したり、徴兵で出て行ったりして空き家が多かったので空き家に移り住んでいた。
ところが子供たちが大きくなるし、水汲みやらなんだかんだで手狭になってまた家を動くことに。そこへ、戦争も押し詰まった頃に。島を守る隊が本土から配属されてやって来た。当時、父たちが住んでいた空き家は広かったのでそこを隊の拠点とするというのでそこをまた出ることになる。
そうやって転々とし、西表島に学童疎開し、そこで大勢の人、当時の学校の若い女性教員もマラリアで亡くなった。
竹富島に常駐すことになった隊「大石隊」高知県の人たちで戦後ずっと東京竹富郷友会と交流があった。当時の小学校は、少しずつ場所を変えて授業を行っていたそうだ。空き家で簡易的に授業をしていた。半年に一度くらい、本土からニュースなどがフィルム映画となって学校で生徒たちに上映することがあって、そういうものから本土の情報を得ていたそうだ。そういうときは島の大人たちがのぞきに来ていたそうだ。

2015/11/27

東地区(あいのた)は本物

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竹富島は、東(あいのた)西(いんのた)仲筋(なーじ)の三地区に分かれている。私の住まうとしているのは東地区。父の両親と母方の祖母の実家がある。
東地区の種子取祭の衣装は、全部本物の芭蕉で織ったもので揃えている。
今は、芭蕉の本物でつくることはないので一枚が十数万円~数十万円になるという。庭の芸能で女性たちが踊る「真栄(まざかい)」の踊りは、東地区が担当しているという。人数がマックス18人なので、がんばって18人からもれないように踊った人から話を聞いた。なんで18人限定?それが東地区の持っている芭蕉の衣装が18枚だからだそうだ。
西地区や仲筋地区は、本物の芭蕉にこだわって揃えてないらしいが、東地区はこだわったているそうだ。

2015/11/26

種子取祭




最近、こちらこちらのブログで書いてます。

弥勒面のひみつ

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竹富島の守り神。竹富島はなんでもありで、あんなに小さな島なのに神、多過ぎ!種子取祭で世曳き(ゆーひき)で登場する弥勒面を被った大山家の御主前(うしゅまい)。

言い伝え(教科書本:民俗学者たちの記述・研究)では、竹富島の豪農の大山家の御主前(うしゅまい)が勢頭座敷という位階が与えられ子や孫たちを引き連れて竹富島の神と与人(よんちゅ)に豊作の報告をするという狂言(きょんぎん)。これだと大山家の御主前を称える竹富島世界観が未来永劫まで続いてしまいそうなのだ。弥勒面について言うと実はこうである・・・弥勒面が浜に流れ着いた。それを拾った中道家の人が朝な夕なに拝んでいたのを与那国与人(よんちゅ:役人、お偉方)が見て、与那国家で守っていくべきだと持って行ってしまう。さらにそれを目にした、当時権力があった大山家の御主前(うしゅまい)が持って行ってしまう。
ところが双方の協議の末、安置保管は大山家で、被るのは与那国家の人ということになったという。
現在は旧役場敷地内に弥勒奉安殿で安置。言い伝えは大山家側に成り立っているが、大山家が無理矢理奪ったのではないかというのが竹富島人の本音。大山家は権力を振りかざし竹富島を制圧していた。あの時代(人頭税時代)、島民は理不尽な税の重圧に絶え苦しんでいたように言われているが、大山家、与那国家のような力のある家々の拮抗に対していつも振り回されていたのではないかと推察する。

そうはいっても神と崇められている存在。神拝み、守りの主権争いで勝ったところで安泰を得られるのだろうか。人々、自然、島を守りここにない誰もが求めるそれはどう跳ね返ってくるのだろうか?今年の種子取祭はめぼしい人の姿が見られなかった。ある人は、弥勒の面のそれが跳ね返ってきたのではないかとつぶやいた・・・

2015/11/25

竹富島の家

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竹富島は、街並み保存指定地区になっているので家は竹富島式の建て方と決まっている。
のような
みたいな建て方じゃないとダメなんです。現在のうちの土地は
で、
みたいな野放図な状態なのです。どうすれば*こちらの土地はうちの土地ではありません
みたいなすてきなおうちが建てられるのでしょうか?まず、草を刈って土地ならしが必要。水を使えるようにする。電気がつくようにする。買い物は石垣島まで買い出しに行くしかない。確か離島は、いや、沖縄の離島は通販で荷物が届かない地域。アマゾンや楽天で買い物しようとしても配送してくれない地域。何をするにも離島までの送料が余計にかかってしまう。でもそれなりの価値があると私は思う。


2015/11/24

大山門中

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家系図・関係図書きがライフワーク。
竹富島は、大山が多い。大山という一人の男から多くの大山子孫が生まれている。大山姓もそこそこいるが、女性が嫁ぎ先の姓になったり、改姓した家も多いのでよほど竹富島の家々に精通した人でないと一見わからない。

私は大山一族ではないので、あまりよくわからない。
私が、手をつけている家系図は、前新家(マエアラヤー、イルマイアラヤー、ヒソーリャ、ソーリャ)仲盛家(ナカウラヤー)、内盛家(ウチウラヤー)、前請盛家(マエキューリャー)、古堅家(ハエモリヤー)、登野城家(トノキャ)富本家(マイアル―リヤ)。
だいたい明治政府以降、親の記述が江戸時代末の生まれくらいの記録や聞きかきでどんどん書き伸ばしている。
まずわかり易い例。
新(アラ)家の長男が新家を引き継ぐから、そのまま新家となる。

次男が新家から分家して、新家の前に家を創建すると「前新」になる。
じゃ、後ろに家を建てると「後新」
新家の東側に建てると「東新」
新家の西側に建てると「西新」といった規則性で姓が作られている。
二つの家で補いながら家を継いでいる。
A家で男の子が絶えるとB家から男の子を出しよそから嫁をもらいA家を継いだカタチにする。そうやって何百年もやってきた。近親婚が多い。
今回書いた大山門中だが、私の場合は錦芳氏、嘉善姓とまたがっており、このあたりのことはおいおい書いていくことにする。

2015/11/23

竹富島親睦会「睦美会」

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沖縄文化のなかに「睦む」というものがあり、竹富島のことばに「賢しくさや睦ぐみど勝りょーる」というのがある。みなが睦んでいくことが賢いというような意味。竹富島文化圏のなかにはいくつかの親睦会がある。私が父の後を引き継ぎ参加しているのが東京・自由が丘を定例会場としている睦美会。

睦美会・・・
昭和40年、東京にて竹富島出身者の60歳以上の有志で「年寄り会」として発足した。その後、竹富島出身者、その子供二世等、竹富島にかかわりのある者が少しづつ加入し(加入条件がゆるくなって)、現在は竹富島のファンで会員全員の了承が加入条件。
今年で睦美会発足50年となる。そこで来年3月に大きなイベントを企画している。私はその記念イベントの記念誌の編集を担当することになった。以前、父がもうひとつの親睦会の記念誌の編集をしたことがる。父の後を継いで活動している流れからすると自然な流れといえる。 問題点が・・・発足当時から構成されていた会員の頃は、竹富島ソウルで原稿の集まりがよく、結束固かったけど・・・生粋の竹富島ッ子は三名のみ、あとは子供のうちに島を出た者、上京した者や二世、三世、竹富島とは一切縁はないが熱烈なファンという会員構成の現状では、打てば響くよな反応は望めない。それで原稿をお願いするのではなくアンケートというかたちにした。それでも集まりは悪い。なかには単なる飲み会として理解しているような人もいる。沖縄で結束する親睦会は、それぞれのポリシーがある。私が子供の頃、沖縄で両親が入っていた親睦会は、母の従兄弟たちで構成されている「従兄弟会」だった。父が加入していた東京でのもうひとつの親睦会は個人事業家中心の会だった。確かに集合して飲むだけのことかもしれないが、会としてくくることにおいて一体感というか家族エネルギーみたいな感覚が生まれ文化として証を残したくなる。それが沖縄文化だと感じている。

2015/11/21

石垣島の一般家庭

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石垣島の親戚の家
弥勒面、あんがま、三線が飾ってある
11月だというのに扇風機、活躍中!
大切なことば・・・守りましょう!無理やりなカンジは否めませんが。
スーパーで買ってくれたじゅうしいおにぎり。安いな~。しかもおいしいときている!石垣島は低賃金。こういうことから低賃金になるのか?低賃金だからこうなるのか?石垣市は、人口4万人らしいが、実際のところは本土からの移住者で5万人弱らしい。

八重山地方紙に種子取祭

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種子取祭の一日目の記事が八重山地方紙のトップに!
庭の芸能の馬ぬしゃ。

戦争中に竹富小学校(当時は、国民学校)の卒業証書を受け取ることができなかった85歳(かぞえなので、実年齢は84歳)になった今、卒業証書を手にした。ここには写ってないが、私の伯父も卒業証書をもらったらしい。伯父は疲れてこの会場に行かなかったとのこと。


2015/11/20

種子取祭2015.11

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竹富島の最大の行事「種子取祭」(たねとりさい:竹富方言読み「たなどぅい」)毎年、10月~12月の間の庚の寅の日、辛の卯の日は、種子取祭の奉納芸能の日。今年、数十年ぶりに行ってみた。芸能奉納の会場に入ってくるところ。
太鼓から。

この前に御嶽に仕える神司(つかさ)が先頭にいたが、撮影は遠慮しておいた。男性陣は、神司のフォーローのようなお役目の人や村長とか、東京・沖縄等々の他郷友会会長の面々。早朝5時から、きちんと古来に習っての儀式を終え芸能会場に入って来た。
棒の演技、太鼓等々の庭の芸能で土地を清める。

馬ぬしゃ。

舞台は、簡素な特設。
赤馬(あかんまー)二才踊りは、たいていが小5~高校生くらいの女の子
しきた盆


もちろん、「いいやち」この「いいやち」実は不評で・・・みんなが言うには練りが足りないらしく、よそのお宅でいただいたものと比べるとおこわぽかった。でも、本土から行った者にとってはすっごくおいしかった~。

途中、会場を抜け出して、祖母の実家である私の受け継ぐ屋敷に行ってみた。ひどいことになっている。一年前に来た時よりもさらにアマゾン化している~。
撮影陣。


照明
音響


鬼狂言(うんきょんぎん)
鬼狂言の準備でライトの調整設置。

鬼ががんばってる~!

今回、時間いっぱい、「石垣港行き船の最終便にじゅうぶん間に合うようにしますから最後の鬼狂言(うんきょんぎん)まで見てくださいと」終盤の途中でアナウンスがあっての鬼狂言だった。これが終わり、さーと会場は人がはけていった。600年昔から続く国指定の重要無形文化財になっている。

初日の夜に「ユークイ」という一件、一件の家を訪れる夜通しまわりもあるのだが私は参加がままならなかった。竹富島の人、出身者、私のように竹富島の子孫たちの間で毎年、毎度、種子取祭のことでいつも思いがいっぱい。竹富島の人、出身者が盛り上がるのが干支の年の人の「生り年の祝い(まりどしのいわい)」で盛大にお祝いをするのがならわし。沖縄の竹富郷友会でもお祝いを配ったり、個人でも各家庭で盛大な誕生会をやる。でもなんといっても種子取祭の時期に合わせて、同窓会や八重山全土の祝いが一番大きな祝い。今年、数えで85歳の祝いの伯父(実際は84歳だが、かぞえで言い表すなごり)と泊まらせていただいているい親戚の女性が61歳の祝い・還暦の祝いで苦しそうな咳をしながら毎夜遅くまで宴席に参加し続けていた。八重山では命がけで祝いをやらなくてはならない。これからも竹富島の種子取祭関連の祝い情報を拾い集めていきたい。