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2016/03/16

睦美会50周年記念祝賀会

こちらの記事は「竹富島学習」よりの転載です。
東京の浅草ビューホテルにて、東京竹富睦美会の50周年祝賀会。





今回、歌を披露してくださった盲目の歌手中村遼さんのご子息が浅草ビューホテルにお勤めということで会場として使わせていただきました。ありがとうございました。




 長年会員の表彰。





睦美会会員で竹富島出身初の歌手前浜みどりさん「真夏の出来事」を華麗に披露!






みなさんへお配りした案内状
プログラム。



お土産の記念グラス。

明治の中頃まで竹富島の人々は、人頭税のため島間移動は自由にできなかった。
丁度同時期に台湾が日本統治となり、人頭税が解かれ納税方法も物納から現金納税に変わった。そして教育制度がはじまり、追って徴兵制度とこの頃に大きく竹富島社会が変わった。
その当時、石垣島次いで沖縄本島、そして多くの人が台湾へ渡った。
東京へ行った者で後に台湾へ渡り竹富島に戻った崎山用枝が東京竹富郷友会を立ち上げる。続々とていどんが上京。
太平洋戦争が終わり戦後の混乱がおさまった頃東京在住の有志で60歳をメドに年寄り会として睦美会は世田谷区の内盛唯夫宅で始まった。

竹富出身者の軌跡を追ってみると、昭和39年のオリンピックの頃、またひとつ階段を上った。起業したり、沖縄の芸能としてNHKに出演したりと。
睦美会は沖縄系の小さな頼母子講。
沖縄社会ではあたりまえにある模合。
沖縄の関係社会は、日本統治時代の南洋でも広く行われていた。
東京で50年続いている沖縄系の会は、おそらく睦美会が一番長いのではないか。


2015/11/23

竹富島親睦会「睦美会」

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移動
沖縄文化のなかに「睦む」というものがあり、竹富島のことばに「賢しくさや睦ぐみど勝りょーる」というのがある。みなが睦んでいくことが賢いというような意味。竹富島文化圏のなかにはいくつかの親睦会がある。私が父の後を引き継ぎ参加しているのが東京・自由が丘を定例会場としている睦美会。

睦美会・・・
昭和40年、東京にて竹富島出身者の60歳以上の有志で「年寄り会」として発足した。その後、竹富島出身者、その子供二世等、竹富島にかかわりのある者が少しづつ加入し(加入条件がゆるくなって)、現在は竹富島のファンで会員全員の了承が加入条件。
今年で睦美会発足50年となる。そこで来年3月に大きなイベントを企画している。私はその記念イベントの記念誌の編集を担当することになった。以前、父がもうひとつの親睦会の記念誌の編集をしたことがる。父の後を継いで活動している流れからすると自然な流れといえる。 問題点が・・・発足当時から構成されていた会員の頃は、竹富島ソウルで原稿の集まりがよく、結束固かったけど・・・生粋の竹富島ッ子は三名のみ、あとは子供のうちに島を出た者、上京した者や二世、三世、竹富島とは一切縁はないが熱烈なファンという会員構成の現状では、打てば響くよな反応は望めない。それで原稿をお願いするのではなくアンケートというかたちにした。それでも集まりは悪い。なかには単なる飲み会として理解しているような人もいる。沖縄で結束する親睦会は、それぞれのポリシーがある。私が子供の頃、沖縄で両親が入っていた親睦会は、母の従兄弟たちで構成されている「従兄弟会」だった。父が加入していた東京でのもうひとつの親睦会は個人事業家中心の会だった。確かに集合して飲むだけのことかもしれないが、会としてくくることにおいて一体感というか家族エネルギーみたいな感覚が生まれ文化として証を残したくなる。それが沖縄文化だと感じている。

2014/03/27

ブログ開始、睦美会初参加

今日から書きますので。
私は、東京生まれの東京育ちの竹富人(ていーどんびと)三世。
曾祖父母のその前の代から竹富島の人。
父は、日本統治時代の南洋で生まれ。
母の両親は昭和初期に上京した竹富人。



今週日曜日(2014.3.23)に参加した、竹富人(てーいどん)の集まり「睦会(むつみかい)」に参加したことから日記。
開催場所は、東京自由が丘の沖縄飲食店「なんた浜」

ママはもとより常連客は、てぃーどんか、竹富をこよなく愛する人々。
昭和41年に東京竹富郷友会の別組織として有志で立ち上げた摸合(もあい)。今回から参加することになった経緯は、おいおい書くので。



元海上保安庁にお勤めで竹富島大フアンというK氏が飛び入り参加して、尖閣諸島のこのほど巡視船の進水式を終えた尖閣専従の船の名前が「たけとみ」に決まったというホットな話題を持って来てくれた。K氏はもともと睦会の会員。ついこの間、脱退したそう。

竹富島 に魅入ったのか、その集いに魅入ったのか、その高齢の品のいい男性は長年ここに通いその会にいたらしい。
実家に戻ってからここのメンバーはずいぶんと入れ替わってしまったことを母から聞いた。
この会が盛んだった頃とはまったく違ってしまったようだ。

私がこのブログを立ち上げたのは、現在の参加者の知らない隆盛の頃、竹富島の現実と今だから明かせることを後世に残すためと竹富島にIターンする目的のためである。

みんな竹富島に何度も通っているらしい。子孫のくせに四度しか行っていないという事実はあまりにも恥ずかしく言えなかった。
あまりにも赤裸々で過激な竹富島の実態、島の人、子孫が抱える大きな問題を今後メルマガで発信していこうと思う。





これから縁もたけなわという頃にお開き予定の時間にひとり退散した私になんた浜のママが最後にくれたあんだぎー。
「あんだぎー」は、子供の頃、おばーちゃんが「てんぷら」と言っていた。または「さとうてんぷら」と言っていた。
あんだぎーは、油で揚げたのであんだぎー。「さーたーあんだぎー」とは「砂糖天婦羅」という意味だと若いナイチャーは知っているのだろうか?








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