2016/12/28

現代の真栄の死

戦後、西表島に移り住んだ大谷用次さんは、現代の真栄と呼ばれていた。
大谷用次さんは、2016.12.17に104歳でお亡くなりになりました。
八重山の地元新聞に載った大谷用次さんの訃報の記事


大谷用次さんが編集された大家と宮良家の系図。
「大」から改名して「大谷」と名乗るようになった。

参考家系図

お願いをして大谷用次さんにお会いする機会をいただいていた。2014.2月のことでした。

竹富島で生まれ育った大谷用次さんは、早くに台湾へ渡り、様々な経験・英語力を身に着け南洋に移り住んでいた。
当時の状況を伺った。


大正時代に生まれ、竹富小学校を卒業(当時は尋常小学校)すると二人の姉を頼って台湾へ渡り洋服店に丁稚奉公をする。
当時、竹富島では見ることはなかった自転車に乗ることを覚え、竹富島では方言のみだったが多くの日本人、日本語教育された台湾人のなかで標準語を話すようになる。
病気で看病を必要とする父が待つ竹富島へ一旦戻るが、当時日本統治だった南洋のロタ行きの話が出て横浜経由で南洋ロタ、テニアンへ移動する。そこで戦争を体験することになる。

戦争中の異常事態、想像を絶するような体験をし戦後妻子と竹富島へ戻るが、方々へ散っていた竹富人が一挙に島へ復員するとたちまち竹富島は飽和状態となってしまう。

西表島への開拓移住の募集があるが、多くの人がマラリアで命を落とした西表島へは誰も行こうとしないなか、意を決して西表島の開拓に乗り出すことに。
日本のアマゾン西表島を農地とすべく開墾するのは並大抵のことではない。
昔、人頭税で作物が育ちにくい土壌の竹富島から西表島へひとり乗り込んだ真栄。まるで真栄のようだということで、大谷用次さんは現代の真栄と言われる由縁。


ご冥福をお祈りいたします。

2016/12/27

東京竹富郷友会90周年記念誌

先月、二年前に90周年を迎えた東京竹富郷友会の記念誌が届いた。これを最初に目にしたのは竹富島の知人宅で。

郷友会は、大正時代に発足をして度々、会の名称を変え東京竹富郷友会として今に至る。
今誌は、今までの記念誌をなぞらえるような大枠なつくりとなっている。
郷友会を支えてきた重鎮たちがここ数年の間に続々と亡くなり、存命の方々もすっかり会に顔を見せなくなってきている。

そんななか、試行錯誤?と思われるほどに懸命に作られたように感じられた。
90周年とあって鳴り物入りで寄付を募られたのだが、期待に反して90年という長い濃い年月はさらりとしているよなボリューム感となっている。

それは、東京竹富郷友会の会員、役員らの関係、、現状を現しているように思える。
封筒はこういう感じで渋いデザインになった。

2016/12/24

西表島に一時間だけ行った

引越し記事(ブログ開けられなくなったので越してきた)

朝一便の船に乗る
思い立ったら吉日な私。朝5時に目が覚めて6時半にホテルを出たら石垣島から朝一の7時10分発の西表島行きの船に乗り込んだ。朝7時10分ということでさすがに観光客はおらずみな西表島へ仕事で行く(通勤)人ばかり。
石垣島から西表島はけっこう乗りでがある。
今まで竹富島にしか行ったことがなかったのですっごく遠くに感じました。
船に乗りあった人々はみな神妙で竹富島へ行くときのようなワイワイモードじゃなくて、こうも空気違うのか~。

船が比較的小さめ?だったのか、けっこう揺れました。

いくつもの島を抜け、海面の色は真っ黒いところやきれいに半透明のグリーンや紺色や今まで見た海とは違った表情を見ました。

島に着くと広いけど閑散としていた。雨上がりで八重山にしてはちょっと寒め。
っていうか、朝だし港だから海風がちょくだから寒いかも・・・
外国人観光客がスマホしていた。しかもガール!
どうやらこの看板の坂を上った先にありそうです。

きっと犯罪はないのか~?のどかな駐在所。
坂を上りきると西表島の繁華街?の大原交差点。車の往来ない。もっとも朝8時前だから。


しかもレンタカー屋さん!いいね!
なんと宅配も充実している!
竹富町初のシェアオフィス

竹富町西表島にWi-Fiのネットが使えるシェアオフィスが出来たことを知り、今回はこれをどうしても見たかったのです。
朝早すぎ(午前10:00オープン)しかも(11月3日文化の日:祝日)のためお休みみたいなので行っても外観を見るのみだけどネットの画像で見るのと実際に行くのとは全然違うので行かなくちゃと!思いは止まらなかった。

石垣島→西表島http://www.aneikankou.co.jp/water_routes/detail/ohara

シェアオフィスhttps://www.facebook.com/taketomi.tel/

2016/12/23

沖縄ITの仕事事情

以下は、別ブログからの移転記事です。(新設したブログですが、開けられなくなったため)

10月の最終土曜日。沖縄竹富島への移住を考えているので沖縄の情報を集めるために行ってきました。
沖縄IT就職フェア

沖縄のIT仕事の就職フェア「IT Career沖縄



私はITでもなく、就労希望でもないが、沖縄が東京での就職イベントをすると聞き、空気を知りたいと思い行ってみました。

26社の企業がブースを設けていた。

今まではアジアと直に日本本土を海底光ケーブルが結ばれていたが、2016年春からアジアからの海底ケーブルを沖縄に陸揚げするスマートハブ構想を2015年9月に内閣府からの交付決定されてからの展開が始まっている。

そこで沖縄へのIT企業の進出などから多くのIT人材が求められる。そういう流れから沖縄へのIT人材や移住などを呼びたいと沖縄県は県外でイベントを行ってるようです。

2016/12/03

竹富島史

これは、この竹富島三世と並行して一時期書いていた姉妹ブログ「竹富島学習」からの一部転載です。竹富島学習では2015.12.12に書いてました。
竹富島の文化史に対してがんばっていた阿左伊孫良さんがいた。東京の大学に進学した当時竹富島から上京していた人々を訪ねて情報を収集していたらしい。

手にしているのは、これ
ここには、東京竹富郷友会の現会長のお父様が、民俗学の本田安次氏、柳田国雄氏、画家の岡本太郎氏と池袋の居酒屋で知り合い東京竹富郷友会の三十五周年記念に出席していただくようにお願いしたエピソード等も載っている。
子供時代の上勢頭(うえせど)亨さんが、風呂焚きの火付けに使われていた村番所時代の文書を数冊持ち帰った。それを後々、古文書を読める阿佐伊孫良さんが現代文に解いて資料化したのがこの本。私がこの巻だけを買ったのは、曾祖父の記述があるので阿佐伊孫良さんに勧められたから。その竹富島近代史の勉強会を阿佐伊孫良さんがやっていたという。

2016/11/19

沖縄国際大学、教授狩俣氏の生家

種子取り祭の前日と一日めの二晩お食事をいただいた仲筋村の狩俣氏の生家
こちらが狩俣家。
お父様は91歳で、お母様も90歳くらいで今は、お嫁さんとお嬢さんが半々で生活介助をしているそうです。
伺った日も学生さんがお見えになったりと忙しそうでした。

2016/11/18

八重山毎日のトップを飾る種子取祭

八重山毎日新聞に種子取祭の記事
種子取祭の写真がガンガン!



種子取祭の模様が11月4日の朝刊に載っていた。
私は、3日の午後から竹富島へ入っていて新聞を目にしたのは5日の夜のこと。
八重山でも話題!
でも同時に石垣まつりも話題でした。

2016/11/17

種子取祭2016③

今年の種子取祭は素晴らしいことであふれていたけれども、なかでも一番拍手喝さいを浴びていたのは、東京竹富郷友会長夫妻による「かなよー」

カメラ位置遠くてきれいにおさまらなかった

大谷喜久男さんが東京竹富郷友会長をやるのは三度目。奥様は福島県出身のヤマトの人。
奥様は一生懸命に踊り習われて、素晴らしいパフォーマンスで、みんな大感動!



2016/11/13

2016種子取祭②

庭の芸能から舞台の方へ移り、竹富公民館長あいさつ
全員で一斉に号令で祀っている神様のほうへ礼、拍手

ホンジャ(長者)
本来は政治、地域の長の意味合いだそうだが、種子取祭でのホンジャとは芸能の統括者という意味合い。
代々玻座間村のホンジャは国吉家。仲筋村は生盛(せいもり)家

弥勒(みろく)
伝説であるが、こんなに大きな?面が海岸に打ち上げられたのを中道家の人が拾ったことが竹富島の弥勒信仰か?


中道家でこの面を拝んでいたのを当時の村を納めていた与那国家が
「うちでお祀りする」と与那国家に移り、さらに竹富島を統括していた
大山家が「これはこれはうちでお祀りする」と、
いうことで弥勒面は以後大山家で保管し与那国家が被るというしきたり化したそうです。
鍛冶工狂言(カザグキョンギン)


鉄器が大陸から竹富島に渡った。鉄で農具を造るときのことを冗談交えのて狂言。
今回の役者さんは、アドリブでタバコを吸って構えるなど趣向をこらしていておもしろかった。
あがっ、あがっ!と鉄を打つふたりのやりとりで熱いからあっちち・・・熱い、痛いと「あがっ」とは方言で痛いの意。


赤馬(あかんまー)






基本的に踊りのはじめ一番目の演目と組み込まれている座開きを意味することも。

馬との別れがあり再び出会えたという喜びを舞踊化した基本の踊り。
衣装は赤くてかわいらしく女の子が踊るが、八重山舞踊のなかでは若衆。若い男の記号としている。

2016/11/09

2016,種子取祭

2016年種子取祭り始まりました!
今年は11月4日、5日。
種子取り祭は10,11月中の庚寅(かのえとら)の日、辛卯(かのとう)の日にあたる日に奉納芸能が行われる。
種子取り祭りは、芸能を神に奉納する。神に観せるためのものなので一番よく鑑賞できる席に神様を祀っている。

 庭の芸能がはじまる。世持御嶽(よもちうたき)前の広場が庭の芸能の会場となる
芸能を鑑賞する一般観光客は両脇の見やすい場所を陣取る!
 公民館長、集落の主事宅を訪問し島の神示を司どる神司(かみつかさ:つかさ)をはじめに入場するところから種子取祭の芸能がはじまる。
 女性たちの行列
男女に別れ「♪ソイソイソイソイ」と声だしながら手踊りし両者は離れながら
「♪ヒヤ、(ドン:銅鑼)ヒヤ(ドン)」と手踊りしながら接近する
これを二、三回繰り返す。
庭の芸能の「棒」にうつる、ボラ吹く、太鼓、銅鑼の四人が立ち並ぶ
棒、大きな槍、カマ、などなどの武器の芸能小道具を使っての演技
私は、カマのファンなので、いつもカマの演技ばかり見入ってしまう~♡
 太鼓、小学生と中学生と学校教師の男子たちによる太鼓
太鼓で鐘を打つ男の子。かわいい顔で声もかわっ!
 働き者女性という意味の「まみどーま」
十人の女性の踊り(十人くらいで踊る)「 じっちゅ」
 「真栄(まざかい)」
 「祝い種子取り」
「祝い種子取り」
祝い種子取(いわいたねとり)は、ユークイの道歌(歌いながら庭の芸能の入場のときに歌った「道歌」)、安里屋ユンタ、クイチャーの三部構成。農耕を行う島人たちの歌と踊り。
「 腕棒(うりぼう)」女性同士の腕をつかった戦い
馬乗者(うまぬしゃ)
大人が真面目に馬をかたどったものをお腹に巻いて踊る

庭での芸能はここまで。
一日目の庚寅の玻座真村からの芸能、二日目の辛卯の仲筋村の芸能と両日ともほぼ同じ。
高校生は学校を休んで出演した場合は出席扱いになる。


2016/10/24

姉妹ブログ引越しからの転載

以下は、一年ほど前に作りましたブログ「竹富島学習」を解体にあたってこちらに移した記事です。

ブログ移転と本格的始動のおしらせ

なんとなく作って放置状態だったこのサイトですが、移転が決まりました。
どういうことかと申しますと・・・
これまでブログを放置していたのは、細々とやっている仕事が徐々に忙しくなってきて、認知症で介護されている父の持ち物の整理に明け暮れ、次々と会う方、行事等に追われるようになりました。

サイトを移転する理由は、あっちもこっちも分散していたサイト運営・行動を一本化していく先行きのメドがたってきたからです。
まずは父の持ち物の整理のメドがついたこと。
竹富島の方向性と事情が見えてきたことです。

まず、「まいうきうり」というのは、祖母の実家の竹富島風の読み方です。
前請盛(まえうけもり)といいます。
この姓を名乗ってらっしゃる方は現在、日本全国で数件だと思います。
でも、本家が私が受け継ぐことになった土地の前請盛家(まいうきうりや)なわけです。
沖縄国際大学の民俗学の教授で竹富島出身の狩俣恵一さんにお会いした時に
「前請盛」は、「請盛(うけもり)」を調べないと前請盛はわからんさーと言われたことから本土関東に在住の請盛姓の方お二人に会って来ました。
そこで昭和の初めに上京した請盛さんと、台湾に渡り満州へ行き終戦後上京した請盛さんのお二人に請盛家についてうかがうことができました。
詳しいことや今後の流れ等は以前から書いておりましたブログ竹富島三世と、今お伝えしています
新ブログのまいうきうり計画にて進展を書いていきます。
主にまいうきうり計画では、沖縄の離島への移住・雇用促進への動きとしてのデュアル生活や離島移住に際しての情報や島の人が島の血筋の人意外にはあまり語らない点も交えて書いていくつもりです。
こんな記事を目にしました。
これは島外部の方が書かれた記事です。
とにかく外側からしか見ることができないからです。
島では、土地は売ってはいけない規則になっています。
ところが・・・持ち主はほとんど沖縄本島・東京へ行ってしまっていますが、土地の所有権は手放していません。
これが答えです。
ま、もし島の土地を全部売って島の人が離れていってしまったら、竹富島は、ただの物体です。
外部の人は島だけに魅了されているのではなくて島の人に魅力を感じ、さらに文化におもしろみを感じているのです。人ありき、昔の竹富の文化ありきなのです。
私は、国が力を入れている地方創生事業にこの竹富島を積極的に向けていく活動をすることにしました。
ただ、島を売るのではなく、島は魂ですから、魂を守るような取り組みです。
それを以後、竹富島三世まいうきうり計画に書いていこうと思います。よろしくお願いします。

2016/07/06

家系の流れを追って

私が竹富島の先祖の家系を辿っていることで家系図を見せてくださる方のところへ伺った。
そこで目にしたのは東玉盛家と与那国家(マイユニュンヤ)のものだった。



このパンフと小冊子は全部読むこと、写させていただくことはできなかった。
が、こういうものが作られたという事実は確認できた。