戦後、西表島に移り住んだ大谷用次さんは、現代の真栄と呼ばれていた。
大谷用次さんは、2016.12.17に104歳でお亡くなりになりました。
八重山の地元新聞に載った大谷用次さんの訃報の記事
大谷用次さんが編集された大家と宮良家の系図。
「大」から改名して「大谷」と名乗るようになった。
参考家系図、
お願いをして大谷用次さんにお会いする機会をいただいていた。2014.2月のことでした。
竹富島で生まれ育った大谷用次さんは、早くに台湾へ渡り、様々な経験・英語力を身に着け南洋に移り住んでいた。
当時の状況を伺った。
大正時代に生まれ、竹富小学校を卒業(当時は尋常小学校)すると二人の姉を頼って台湾へ渡り洋服店に丁稚奉公をする。
当時、竹富島では見ることはなかった自転車に乗ることを覚え、竹富島では方言のみだったが多くの日本人、日本語教育された台湾人のなかで標準語を話すようになる。
病気で看病を必要とする父が待つ竹富島へ一旦戻るが、当時日本統治だった南洋のロタ行きの話が出て横浜経由で南洋ロタ、テニアンへ移動する。そこで戦争を体験することになる。
戦争中の異常事態、想像を絶するような体験をし戦後妻子と竹富島へ戻るが、方々へ散っていた竹富人が一挙に島へ復員するとたちまち竹富島は飽和状態となってしまう。
西表島への開拓移住の募集があるが、多くの人がマラリアで命を落とした西表島へは誰も行こうとしないなか、意を決して西表島の開拓に乗り出すことに。
日本のアマゾン西表島を農地とすべく開墾するのは並大抵のことではない。
昔、人頭税で作物が育ちにくい土壌の竹富島から西表島へひとり乗り込んだ真栄。まるで真栄のようだということで、大谷用次さんは現代の真栄と言われる由縁。
ご冥福をお祈りいたします。
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