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2015/11/25

竹富島の家

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移動
竹富島は、街並み保存指定地区になっているので家は竹富島式の建て方と決まっている。
のような
みたいな建て方じゃないとダメなんです。現在のうちの土地は
で、
みたいな野放図な状態なのです。どうすれば*こちらの土地はうちの土地ではありません
みたいなすてきなおうちが建てられるのでしょうか?まず、草を刈って土地ならしが必要。水を使えるようにする。電気がつくようにする。買い物は石垣島まで買い出しに行くしかない。確か離島は、いや、沖縄の離島は通販で荷物が届かない地域。アマゾンや楽天で買い物しようとしても配送してくれない地域。何をするにも離島までの送料が余計にかかってしまう。でもそれなりの価値があると私は思う。


2014/12/12

安里やユンタの子孫

祖母の屋敷(祖母の生家)を見るために歩いていると草を刈っている人に呼び止められた
この人は安里やユンタのクヤマの子孫らしく、若い時、戦争中は士官学校から広島江田島にいて潜水艦の方の特攻隊だった。終戦で捕虜から日本に戻ったとのこと。

ここが、琉球王府からクヤマに与えられた畑。けっこうな広さだった。

長い間、東京で政府関係の仕事をしていて終えたのち、竹富島に戻て草が生えて道なき道となっていたところをこのような道を作ったそうだ。

竹富島は、一家の長男はそのまま居て嫁を迎える。でも次男以降は、家を出て分家して家を建てる。

長男が継いだ本家。本家から出て、本家の前に家を建てると前〇〇という姓をつくったり、屋号にしたりする。
本家の前なら前〇〇。
本家の後なら後〇〇(後ろは、「シー」)
西側なら入〇〇か、西〇〇(日が西に沈むから西を入りとか、イルとかイと読んだりする)
東側なら東〇〇(日が上がってくるので東は、アイとか読んだりする)

この子孫の方は、ていどん(竹富島の人という意)が戻てきて分家したときのために地ならしや土台つくりなどの土地の整備をしているそうだ。


竹富島で感じるのは、みんなが島を愛していて、そして互いを思いやっている姿勢を崩さないことだ。

2014/12/10

まちゃばーさん

私の先祖のことで以前、祖母の土地に住んでいたまちゃばーちゃんに話を聞いた。

まちゃばーちゃんは、現在は「ゆがふ館」で案内スタッフとして活躍しているそうだ。なんと90歳!女性の時代、キャリアウーマンを地でいっている2014年的な女性だ。
今現在は、築100年という文化財となっている與那国(マイユヌンニヤ)のトーラに住んでいる。
與那国邸は、昔の従来の竹富島の家屋のスタイル。
私の父の沖縄の家の間取りもここに似ていた。

向うの小さいおうちが、まちゃばーさんが住むトーラ(台所)の建物。
そこに小さく一人で暮らしている。


輿那国家は立派な家だそうだ。みな学があり、この家から竹富島の町長も出た。

まちゃばーちゃんは、私の祖母の従弟の奥さん。
私の曾祖父の事を聞いた。
曾祖父は、ナーのマイキュリャー。太鼓がうまかったそうだ。







2014/10/24

竹富島の土地

過疎にみられている竹富島。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。

島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。

認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。

そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの

実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。

竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。

父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。

竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。

昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?

私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。

2014/10/23

竹富町の登記事務は石垣島


竹富島にある先祖の土地についての事務手続きのために動くことにした。
竹富島は昔、竹富島が称えて誇っている西塘様のおはたらきで行政機関である「蔵元」を竹富島に置いていたそうだ。
でも不便だったので数十年ほどで石垣島に移され、以後石垣島にある。
ということで手続き等は、めんどくさくても、竹富島なのに石垣島に行かなければならない。
石垣市登野城にある那覇地方法務局の石垣支局へ電話で問い合わせをした。

竹富町役場は、石垣島の石垣市美崎町。
美崎町は、石垣港のすぐそばにある。
美崎町が飲食街として栄えたのは、昔は八重山の島々から船がひっきりなしに入り、人々の往来が多く港町して栄たそうだ。
というわけで、竹富島の事務のために石垣島に行かなくてはならない。

家系図


戸籍を取ったり、門中の家系譜から家系図を書いていこうとしている。
うちらの場合、門中の外だから、おおかた残っていない。
もっぱら、聞き書きや個人が書いた個人史からそのカタチを辿るしかない。

母方の祖母の実家の家系図を書いて叔父に送ったら、それだったらきみにこれをあげるよと。
送っていただいた。
まだじっくりは読めていないが、大方は他と大差ない軌跡だ。
そりゃそうだろう。
明治・大正・昭和戦中戦後と人生スタイルは限られていて、みんな似たりよったりだ。
特に竹富島の場合、まったくと言っていいほどに同じだ。
大抵は、島で小学校を出て、そのあとの教育を受けるために石垣島か台湾へ行く。
台湾で生活したり、戦後戻り、八重山で教師したり島に戻って暮らすとか、
それくらいで人生の選択肢は少なかったから。

今、三つくらいの家系図がだんだん枝が分かれていくようにどんどん伸びてきている。
困るのは、絡まっちゃってるんだ。関係が。


    私の書いている家系図や、聞き取りは、誰も書いてない部分だ。
    それはそれまで生きていた方の手前、言えなかった本物の父親だったり、本当の出所が明らかになってきつつあるから。

    門中のような立派なものをはじめとして基本的に沖縄の家系図は女性は書かない。
    ので、全然つかめなくなってしまう。
    沖縄返還前後あたりから書く人が出てきて、そのなかに女性が残す人が出てきた。
    画像の著者は、女性で元教師らしい。*主婦のようです


    今年に入ってからうれしいことに個人史が三冊ゲットできた。
    ますます家系図は枝分かれし、その枝は伸び続けていくのが追える。

    2014/03/30

    過疎化の竹富島、Iターンできるのか

     
    竹富島に一般の人が住むのは無理。
    どうしてもというのなら島の人と結婚するか、養子になるか。
    もしくは住み込みのバイトなら・・・。でも、土地取得はできない。
    2月に竹富島に先祖のことを聞きに行ったときに
    「こっち(竹富島)に住めばー」と言われてしまった。
    なぜ、島に土地も家もない私が住めるのか?
    これが竹富島過疎のわけというか、問題点。
     
    竹富島は、土地は売ってはいけない。
    でも実際、売ってしまい問題に。ダブルスタンダードになっている。
    土地の問題は、人頭税時代に島間の移動が出来なかったこと。
    そういうところからもきている。
    が、私が竹富島にIターンはなぜ出来るのか?
    なぜ帰らなくては(東京生まれでも、魂のよりどころして帰るという意味)ならないのか?
     
    竹富島は、家ごとに屋号があって、屋号を呼ぶ習慣がある。
    もともと昔は、苗字はなかったので名だけで呼んだ。
    名前は、祖父母等から譲り受ける。
    母方の祖父は「宇座」西塘の子だか?弟?と同じ名。
    そういうとずっとさかのぼっていくと誰の子孫だかわかる。
    ところが明治時代に教育制度が整ってきて自分たちで名をつけるようになっていく。
    祖父は、ウザッカーと幼少時代は呼ばれて、のちに祖父独自の名に変えることに。
    いま現在は、屋号は、一族を表す言い方のようになっている。
    例えば「ハーヤ」現在カフェになっているハーヤーは、「赤山家」のこと。
    竹富島では、赤のことを「ハー」というらしい。
    ここでじゃなぜ踊りの「赤馬節」のことを「あかんまー」というのか?
    ハー馬と呼ばないのか?
    竹富島だけなのかもしれない。
    赤馬節は、八重山全体の踊りのようでもあるし、沖縄も絡んでいるストーリーだかららしい。
     
    私のことを屋号だけで説明がつく。
    曾曾祖父が、ハーヤーからナカウリャーへ婿養子に入る。
    曾曾祖母はウチウラリャーからナカウリャーへ。
    祖母は、ミウリャーから。母の祖母マイキューリャーから。
    母方の祖父はマイアラヤー。
    というだけで竹富島の人は、私のことを理解できるのだ。
    今は、一族のこととして通ている。でも戸籍にもないし、決まりでもなんでもない。
     
    私がやりたいのはフチャーヤーの家系図に負けない家系図を書きたいのだ!
    フチャーヤーとは黒島家のこと。
    だれもいちいち黒島家とは言わない。
    あー、フチャーだろう!とか。
    フッチャのツジよ(黒島の妻よ)とか・・・。
     
    フチャーヤーの家系図を見事に書いた人がいる。
    それは、噂でも聞いたし、フチャーヤーの子孫の方からも聞いた。
     
    で、竹富島の過疎とは?
    竹富島の家の絶対数が決まっている。
    土地を買うことができない。全部子孫に相続する。
    多くの人が竹富島を離れることになった理由がこれである。
    長男以外は、家を出てよそに家を建てる。
    明治時代に人頭税が終わり物納から金銭に変わり、
    教育が入り、島から出られるようになったので長男以外は家を出る。
    それから石垣島か沖縄本島か台湾か、東京へ行ったのだ。
    過疎というか、長男以外は全員出ていくことに。
    長男で家を出て上京した人はどんどん竹富島へ戻っている。
     
    じゃ、長男でもない私(ちなみに私は長女)が戻ったらどう?と言われるのか?
    ここが問題。みんなそう。
    竹富島の空き屋敷。
    売ってはいけない。でも継ぐ人が戻ってこない。
    でも売ってはいけない!!
    それは、竹富島は、六山(ムーヤマ)という六つの御嶽がある。
    御嶽の神に祈る専門の神司(かみつかさ:みんな「つかさ」と呼ぶ)
    島の人々、家々はみんなどこかの氏子になっている。
    みんな拝んでもらう。
    ちなみに私の五代前の祖母から継ぎ継ぎと曾祖母まで司。
    曾祖母からは引き継ぐ流れにならなかった。
    みんなが島自体が御嶽のようになっていて島民は、氏子なわけ。
    そういう仕組みというか成り立ち。
    長男が家を引き継ぐ習慣を今もかたくなに守っている。
     
    私の場合は、理解するまでに時間がかかった。
    複雑に絡み合っているから。
    たぶん、竹富島でもこんな人は私だけ。
     
    竹富島のダブルスタンダードゆえに司を継ぐ流れでないということや、
    長男が継ぐ仕組みで長男以外が家を出るというゆえの悲劇・・・。
     
    また続きは、どっかで書くので。