2014/03/31

八重山から電話





返還前の沖縄から東京への手紙(1セント切手)

 
先ほど八重山(石垣市)から電話があった。
先月、竹富島へ行った先祖についての追跡調査というか継続聞き取りのことで。
私が供養すべき土地、人のこと。
一族にまだ存命の方がいてその人の情報と供養の仕方について。
知り合いの現在神司をしている人に聞いてくれるとのこと。
 
今、動いているのはほとんどが女性なのだ。
なぜ、女性に島の裏側のことがのしかかってくるのか?
それがいつの代も持ち越されてしまうのか。
 
 
人頭税時代のことが21世紀のPCを使うような時代になっても竹富島の家継ぎ、供養の問題はつきまとう。
特に私・・・。
これは、長田大司(ナータウーフシュ)VSおやけ赤蜂のことにさかのぼる。と、親戚の方に言われてしまった。
おやけ赤蜂なんて伝説の人で無関係だと思っていた。
 

                                            記録をもとに 等身大に作ってあるらしいおやけ赤蜂像
 
 
おやけ赤蜂は、石垣島の東側で勢力を拡大し、西側にいた長田大司を西表に追いやってしまったという。
つい最近まで、悪者おやけ赤蜂は、今や英雄?!
時代によってよく言われたり、悪者にされたり・・・。
 
どちらにしても1500~1600年頃が、八重山の今のかたちの起点になったものらしい。だからおやけ赤蜂のことは外せないようだ。
 
 
 
 
 
 

 
 


2014/03/30

過疎化の竹富島、Iターンできるのか

 
竹富島に一般の人が住むのは無理。
どうしてもというのなら島の人と結婚するか、養子になるか。
もしくは住み込みのバイトなら・・・。でも、土地取得はできない。
2月に竹富島に先祖のことを聞きに行ったときに
「こっち(竹富島)に住めばー」と言われてしまった。
なぜ、島に土地も家もない私が住めるのか?
これが竹富島過疎のわけというか、問題点。
 
竹富島は、土地は売ってはいけない。
でも実際、売ってしまい問題に。ダブルスタンダードになっている。
土地の問題は、人頭税時代に島間の移動が出来なかったこと。
そういうところからもきている。
が、私が竹富島にIターンはなぜ出来るのか?
なぜ帰らなくては(東京生まれでも、魂のよりどころして帰るという意味)ならないのか?
 
竹富島は、家ごとに屋号があって、屋号を呼ぶ習慣がある。
もともと昔は、苗字はなかったので名だけで呼んだ。
名前は、祖父母等から譲り受ける。
母方の祖父は「宇座」西塘の子だか?弟?と同じ名。
そういうとずっとさかのぼっていくと誰の子孫だかわかる。
ところが明治時代に教育制度が整ってきて自分たちで名をつけるようになっていく。
祖父は、ウザッカーと幼少時代は呼ばれて、のちに祖父独自の名に変えることに。
いま現在は、屋号は、一族を表す言い方のようになっている。
例えば「ハーヤ」現在カフェになっているハーヤーは、「赤山家」のこと。
竹富島では、赤のことを「ハー」というらしい。
ここでじゃなぜ踊りの「赤馬節」のことを「あかんまー」というのか?
ハー馬と呼ばないのか?
竹富島だけなのかもしれない。
赤馬節は、八重山全体の踊りのようでもあるし、沖縄も絡んでいるストーリーだかららしい。
 
私のことを屋号だけで説明がつく。
曾曾祖父が、ハーヤーからナカウリャーへ婿養子に入る。
曾曾祖母はウチウラリャーからナカウリャーへ。
祖母は、ミウリャーから。母の祖母マイキューリャーから。
母方の祖父はマイアラヤー。
というだけで竹富島の人は、私のことを理解できるのだ。
今は、一族のこととして通ている。でも戸籍にもないし、決まりでもなんでもない。
 
私がやりたいのはフチャーヤーの家系図に負けない家系図を書きたいのだ!
フチャーヤーとは黒島家のこと。
だれもいちいち黒島家とは言わない。
あー、フチャーだろう!とか。
フッチャのツジよ(黒島の妻よ)とか・・・。
 
フチャーヤーの家系図を見事に書いた人がいる。
それは、噂でも聞いたし、フチャーヤーの子孫の方からも聞いた。
 
で、竹富島の過疎とは?
竹富島の家の絶対数が決まっている。
土地を買うことができない。全部子孫に相続する。
多くの人が竹富島を離れることになった理由がこれである。
長男以外は、家を出てよそに家を建てる。
明治時代に人頭税が終わり物納から金銭に変わり、
教育が入り、島から出られるようになったので長男以外は家を出る。
それから石垣島か沖縄本島か台湾か、東京へ行ったのだ。
過疎というか、長男以外は全員出ていくことに。
長男で家を出て上京した人はどんどん竹富島へ戻っている。
 
じゃ、長男でもない私(ちなみに私は長女)が戻ったらどう?と言われるのか?
ここが問題。みんなそう。
竹富島の空き屋敷。
売ってはいけない。でも継ぐ人が戻ってこない。
でも売ってはいけない!!
それは、竹富島は、六山(ムーヤマ)という六つの御嶽がある。
御嶽の神に祈る専門の神司(かみつかさ:みんな「つかさ」と呼ぶ)
島の人々、家々はみんなどこかの氏子になっている。
みんな拝んでもらう。
ちなみに私の五代前の祖母から継ぎ継ぎと曾祖母まで司。
曾祖母からは引き継ぐ流れにならなかった。
みんなが島自体が御嶽のようになっていて島民は、氏子なわけ。
そういう仕組みというか成り立ち。
長男が家を引き継ぐ習慣を今もかたくなに守っている。
 
私の場合は、理解するまでに時間がかかった。
複雑に絡み合っているから。
たぶん、竹富島でもこんな人は私だけ。
 
竹富島のダブルスタンダードゆえに司を継ぐ流れでないということや、
長男が継ぐ仕組みで長男以外が家を出るというゆえの悲劇・・・。
 
また続きは、どっかで書くので。
 

2014/03/28

竹富島を知る資料から

去年から記憶が薄れてきた父に聞き取りをしていた。
資料は、竹富小中学校の卒業名簿等。明治の教育制度が始まった尋常小学校と言われた四年生制にはじまり科目が増えて六年生になった頃のことから国民学校を経て中学校が義務教育となった戦後。そして昭和50年代に入るまでのもの。
まずは父の名を探す。まてよ。父は途中で石垣島に移っているからいないかー。でもあった。ちょうど六・三・三制に変わる過渡期でとにかく名前はあった。おばさんや、おじいちゃんや知り合いの人とかどんどん調べるとけっこうない!ひとつは、名前を改名した人が多い。もうひとつは、小学校から途中石垣島や沖縄本島もしくは台湾の学校に行った人もいたわけで。

竹富島小学校は明治二十年代半ば、大川小学校の分校として出来たらしい。
それから教育制度の編制を経て今のかたちと場所になっていった経緯がある。

もっと古い時代からさかのぼって調べるのは言わずと知れている竹富島のバイブル「蟷螂の斧(とうろうのおの)」これだと石器土器を使っていた時代、大国から渡来してきた人のことにさかのぼる。
でも竹富島の人や研究者で読んでいない人はいない。
実はこの本、もう手に入らない。
三冊うちにあったので一冊送ったら(ゆがふ館)から丁重な電話を受けた。
先月、八重山に行ったときに案内してくれた親戚の女性が、著者の書いたものの整理をしていた人。
著者の「崎山毅(さきやまたけし)」は、これだけの内容をそこいらの週刊誌などに書いて積み上げていたらしい。
それを紙に書き写す作業をやらされていたとのこと。
崎山毅氏は、医者。
明治時代生まれの竹富島出身者初の医者だと思われる。
崎山毅氏の経緯等、とりまく事情等は発刊予定にしているメルマガ等に書こうと思う。
ここではおおまかな流れだけにとどめておこう。

 

2014/03/27

ブログ開始、睦美会初参加

今日から書きますので。
私は、東京生まれの東京育ちの竹富人(ていーどんびと)三世。
曾祖父母のその前の代から竹富島の人。
父は、日本統治時代の南洋で生まれ。
母の両親は昭和初期に上京した竹富人。



今週日曜日(2014.3.23)に参加した、竹富人(てーいどん)の集まり「睦会(むつみかい)」に参加したことから日記。
開催場所は、東京自由が丘の沖縄飲食店「なんた浜」

ママはもとより常連客は、てぃーどんか、竹富をこよなく愛する人々。
昭和41年に東京竹富郷友会の別組織として有志で立ち上げた摸合(もあい)。今回から参加することになった経緯は、おいおい書くので。



元海上保安庁にお勤めで竹富島大フアンというK氏が飛び入り参加して、尖閣諸島のこのほど巡視船の進水式を終えた尖閣専従の船の名前が「たけとみ」に決まったというホットな話題を持って来てくれた。K氏はもともと睦会の会員。ついこの間、脱退したそう。

竹富島 に魅入ったのか、その集いに魅入ったのか、その高齢の品のいい男性は長年ここに通いその会にいたらしい。
実家に戻ってからここのメンバーはずいぶんと入れ替わってしまったことを母から聞いた。
この会が盛んだった頃とはまったく違ってしまったようだ。

私がこのブログを立ち上げたのは、現在の参加者の知らない隆盛の頃、竹富島の現実と今だから明かせることを後世に残すためと竹富島にIターンする目的のためである。

みんな竹富島に何度も通っているらしい。子孫のくせに四度しか行っていないという事実はあまりにも恥ずかしく言えなかった。
あまりにも赤裸々で過激な竹富島の実態、島の人、子孫が抱える大きな問題を今後メルマガで発信していこうと思う。





これから縁もたけなわという頃にお開き予定の時間にひとり退散した私になんた浜のママが最後にくれたあんだぎー。
「あんだぎー」は、子供の頃、おばーちゃんが「てんぷら」と言っていた。または「さとうてんぷら」と言っていた。
あんだぎーは、油で揚げたのであんだぎー。「さーたーあんだぎー」とは「砂糖天婦羅」という意味だと若いナイチャーは知っているのだろうか?








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