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2014/10/23

崎山毅「蟷螂の斧」より

竹富島は、達奇度奴(たきどぬ)と呼ばれ、昔、屋久島、徳之島、久米島沖縄島から祖神(おやがみ)たちが渡来して、ここに邑(むら)建てをしたと
「神すじ」で伝えている。

★「神すじ」 神司(かみつかさ)が祖神(おやがみ)さまの前で唱える詞であって、祖神の素性、部落の創始者並に勲功のあった神々や部落の縄張りに
関する協定事項などを含んでいる。

2014/03/28

竹富島を知る資料から

去年から記憶が薄れてきた父に聞き取りをしていた。
資料は、竹富小中学校の卒業名簿等。明治の教育制度が始まった尋常小学校と言われた四年生制にはじまり科目が増えて六年生になった頃のことから国民学校を経て中学校が義務教育となった戦後。そして昭和50年代に入るまでのもの。
まずは父の名を探す。まてよ。父は途中で石垣島に移っているからいないかー。でもあった。ちょうど六・三・三制に変わる過渡期でとにかく名前はあった。おばさんや、おじいちゃんや知り合いの人とかどんどん調べるとけっこうない!ひとつは、名前を改名した人が多い。もうひとつは、小学校から途中石垣島や沖縄本島もしくは台湾の学校に行った人もいたわけで。

竹富島小学校は明治二十年代半ば、大川小学校の分校として出来たらしい。
それから教育制度の編制を経て今のかたちと場所になっていった経緯がある。

もっと古い時代からさかのぼって調べるのは言わずと知れている竹富島のバイブル「蟷螂の斧(とうろうのおの)」これだと石器土器を使っていた時代、大国から渡来してきた人のことにさかのぼる。
でも竹富島の人や研究者で読んでいない人はいない。
実はこの本、もう手に入らない。
三冊うちにあったので一冊送ったら(ゆがふ館)から丁重な電話を受けた。
先月、八重山に行ったときに案内してくれた親戚の女性が、著者の書いたものの整理をしていた人。
著者の「崎山毅(さきやまたけし)」は、これだけの内容をそこいらの週刊誌などに書いて積み上げていたらしい。
それを紙に書き写す作業をやらされていたとのこと。
崎山毅氏は、医者。
明治時代生まれの竹富島出身者初の医者だと思われる。
崎山毅氏の経緯等、とりまく事情等は発刊予定にしているメルマガ等に書こうと思う。
ここではおおまかな流れだけにとどめておこう。