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2015/12/13

八日会と睦美会の発足

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移転です。
上京した竹富島出身者で作った組織に東京竹富郷友会がある。郷友会の大組織のなかに有志で会が結成された。
「八日会(ようかかい)」毎月8日に集まることとしたので八日会と命名した。沖縄では、模合という相互扶助の精神からメンバーを募り毎月例会をし金を積み立てそこから毎月一人がまとまった金額を引き出せるシステム。沖縄ではたいていの人が加入している。※その昔、南洋に沖縄から多くの移住者が渡った。そこでもいくつもの模合があったそうだ。八日会はどちらかというと個人事業主の人が多く、そうとうの積立金があって、そこから引き出したり、余剰金の配当金や旅行、ホールなどの会場を借りてのパーティーなどをやっていた。会は、十数年前に解散。在籍したほとんどの人は亡くなってしまった。存命中の人は施設に入っている高齢者や認知症になってしまった私の父くらい。八日会は、ある野心を抱いた人のおおいなる思いから展開された。それは、私の大伯父で東京竹富郷友会の19代会長を務めた花城永勝(えいしょう)
昭和50年に亡くなった。竹富島で生まれ、当時の尋常小学校を卒業すると台湾に渡り金物屋の丁稚になる。昭和初期に東京に移る。現在の世田谷区太子堂で新婚生活がはじまった。当時、沖縄を中心に日本統治下の南洋群島への移住者を募っていた。南洋群島の郵便局員勤務のための逓信省の試験に受かり南洋に渡った兄の後を永勝も追い南洋に渡った。昭和6年のことだった。そのときに妻子は竹富島に戻っている。単身で行ったのかもしれない。でも戦争前の昭和15年には妻子は東京へ移住していた。前後するが、昭和12年、日中戦争が起こる頃に台湾に渡っている。そして海南島へ日本軍の基地整備の作業員として過ごし、「第二次世界大戦がはじまりそうだ!この戦争がはじまったらたいへんなことになる。日本は負けるかもしれない」という内容の手紙を妻子に送っている。
当時の海南島は、韓国の刑期中の者、中国からかき集められた若者らに整備して基地やら飛行場をつくるなどに躍起だった。永勝の幼い頃から友人で同時に海南島に行っていて、その後八日会の会長になった浅井秀人氏が手記に通信設備の工事を行っていたと書いている。戦後、多くの復員と共に永勝も海南島から台湾経由で戻る。戦後の東京竹富郷友会は、世田谷区の太子堂で集ったという。おそらく永勝の家あたりが活動拠点として集まりやすかったのだろう。そうやって精力的に活動して昭和38年の頃に永勝は東京竹富郷友会の会長に就任すると同時に模合をやろうと提案する。それが八日会発足となるが・・・。竹富島幼少期から仲良しで一緒に海南島時代を過ごし無事帰還した唯一無二の友と仲間割れとなり、自分が発起人として立ち上げた八日会をすぐに脱会してしまう。でも同時並行して睦美会が立ち上げられていてそこの発足メンバーに永勝の名前が掲げられていた。永勝にとって八日会は、友達や外側の人との交流。睦美会は、遠縁の親戚らがいた。こちらのほうが居心地がよかったのしれない・・・。いや、もっと複雑な何かがあったに違いないが、当時の関係者がほとんど亡くなってしまったのでもうわからない。私はこういう背景を知っての睦美会参加となっている。現在の睦美会員で永勝のことをよく知る人はもういない。