2014/10/24

通い婚

大正時代あたりまで竹富島の結婚は「通い婚」だった。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
竹富島のこの通い婚という習慣によって結婚が成立できなかったことが多々あったようだ。

戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。

沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。

竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。

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