2014/10/28

メレーターが多いわけ.



近親婚とメレーター(婚外女)が多い竹富島。
それは、けっして大昔からというわけではなさそうです。
親戚の伯父さん、伯母さんたちや竹富島にて育った方に聞いたり、昔の記録等から意外な事実が浮かび上がってきました。

通い婚
親同士が決めた男女。男が女の家に通い、その家の畑仕事を一緒にやったり、食事をとったり二人目の子が生まれるころまでそういう半同棲ようなカタチで暮らし、二人目が生まれる頃に新たに家を構えるというスタイルだった。
教育制度
明治の中期ごろに竹富島でも始まった学校教育制度によって、さらに学ぶ者は、石垣島の学校、もしくは台湾へ。
学業に進む者のほとんどは男。
国民皆徴兵制
それまでは、畑、漁の暮らしから兵役に就くよう徴兵検査で通った男は、配属された地へ赴く。
人頭税廃止により賄い女のくちは終わる
人頭税等で島に留任するウシュマイ(役人)の賄いをするための賄い女(自動的にめかけ)制もなくなる

男女不均衡な人口形態
当時の竹富島の女性の生涯は、子育てと畑作業と機織り。ところが島から男の流出が相次ぐ。
上記のような人口動態で男女の絶対数があわなくなってくる。
ところが基本は、通い婚なわけで、どうしたって女が余る。
ということで婚外関係によっての女性と子供が多くなったのだろう。

そういことで私の曽々祖母たちはそういう立場になって子供を宿し養育していくことにいたったのではないだろうか。




ハジチ


女性は、結婚すると手の甲にハジチという刺青を入れていたそうだ。
昭和15年の冬、四番目の孫の出産のために竹富島から上京した母の曾祖母。
外で食事をするときに手に入ったハジチが恥ずかしく隠していたとのこと。
*上記の写真の曾祖母のエピソードではありません。

この写真は、父の方のばあさんだと思われます。
(父のところからでてきたから)

明治時代中期あたりまで行われていたそうです。

明治時代に入って竹富島の生活スタイルががらっと変わったようですそれは・・・。



2014/10/24

通い婚

大正時代あたりまで竹富島の結婚は「通い婚」だった。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
竹富島のこの通い婚という習慣によって結婚が成立できなかったことが多々あったようだ。

戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。

沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。

竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。

島の歴史に精通していた阿佐伊氏の死

9/28日曜日、自由が丘の沖縄料理店、在京の竹富島出身者愛好者の親睦定例会に出席した。ゲスト参加したてぃーどん3世で近く結婚式を挙げる若いカップルにみんなで祝杯をあげた。

そして長く東京竹富郷友会で活動をしていた阿佐伊孫良氏の訃報が伝えられた。
阿佐伊孫良氏は、竹富島、西集落の屋号アサイヤの三男。
明治時代以前の人頭税時代に島に駐留した与儀与人(よぎよんちゅ)の子孫。
東京竹富郷友会の大功労者だった。
学生時代に上京し東京に居ながらもつねに竹富を想い活動していた。
昭和50年頃の阿佐伊孫良氏。八重山に関する雑誌等で若いころから執筆をしていた。

私が祖父のことや曾祖父について尋ねると「この本を読むといいさー」とすすめられた。
この本は、阿佐伊氏が竹富島の近代昔の農具をはじめとした生活品などを蒐集した上勢頭(うえせど)亨氏が保存していた公文書などを現代文に書いたもの。
今年(2014)、2月に竹富島の阿佐伊氏を訪ねたときは元気だった。それが私が見た最後の姿となった。このときすでにガンの病にあった。
他のてぃーどんの人と断然違うのは竹富について絶対にゆずらない人だったこと。
多くの文献に触れ、竹富のあった姿をきちんと伝えるための人生だった。ご冥福をお祈りいたします。

戦後沖縄のアルバムから

父の持ち物を整理して出て来たアルバム。

数少ない少年期の写真、復帰前の閑散とした沖縄の風景が写っていた。
中央に写っているのが南洋相互銀行に一時期勤めていた祖父。

父が沖縄のバス会社「銀バス」に勤めていたころ。
父が就職した昭和29~32年当時は、アメリカの払下げのスクールバスを直して、市内運行用バスに使っていた。

父たちは、戦争中は竹富島で過ごし終戦で多くの人が帰ってきた。
大正時代に南洋に移り住んだ人々から台湾に移り住んだ人々、満州から戻った人々で小さな竹富島は人が飽和。
竹富島は、農業に適さない地質なので皆に供給できるほど畑がないので、隣の西表島に開墾で渡っていく人が多かった。
西表島に多くの人が渡ったが、そこも農業には向かないので多くの人が去って行った。
父の一家は、家庭不和もあって一時期石垣島に渡ったがじきに与那国へ渡った。

たぶん、石垣港から与那国島行きの船に乗り込む前に取った一枚だと思われる。
祖母は、赤ん坊をおぶっていた。
みな、けっこうモダンな恰好していた。
当時の与那国島は、密貿易が盛んだったそうだ。
父の一家のように畑仕事で食べて行こうとする素朴な思考の人と儲けのために渡っていく人も少なくなかったそうだ。

竹富島の土地

過疎にみられている竹富島。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。

島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。

認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。

そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの

実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。

竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。

父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。

竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。

昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?

私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。

2014/10/23

崎山毅「蟷螂の斧」より

竹富島は、達奇度奴(たきどぬ)と呼ばれ、昔、屋久島、徳之島、久米島沖縄島から祖神(おやがみ)たちが渡来して、ここに邑(むら)建てをしたと
「神すじ」で伝えている。

★「神すじ」 神司(かみつかさ)が祖神(おやがみ)さまの前で唱える詞であって、祖神の素性、部落の創始者並に勲功のあった神々や部落の縄張りに
関する協定事項などを含んでいる。

竹富町の登記事務は石垣島


竹富島にある先祖の土地についての事務手続きのために動くことにした。
竹富島は昔、竹富島が称えて誇っている西塘様のおはたらきで行政機関である「蔵元」を竹富島に置いていたそうだ。
でも不便だったので数十年ほどで石垣島に移され、以後石垣島にある。
ということで手続き等は、めんどくさくても、竹富島なのに石垣島に行かなければならない。
石垣市登野城にある那覇地方法務局の石垣支局へ電話で問い合わせをした。

竹富町役場は、石垣島の石垣市美崎町。
美崎町は、石垣港のすぐそばにある。
美崎町が飲食街として栄えたのは、昔は八重山の島々から船がひっきりなしに入り、人々の往来が多く港町して栄たそうだ。
というわけで、竹富島の事務のために石垣島に行かなくてはならない。

家系図


戸籍を取ったり、門中の家系譜から家系図を書いていこうとしている。
うちらの場合、門中の外だから、おおかた残っていない。
もっぱら、聞き書きや個人が書いた個人史からそのカタチを辿るしかない。

母方の祖母の実家の家系図を書いて叔父に送ったら、それだったらきみにこれをあげるよと。
送っていただいた。
まだじっくりは読めていないが、大方は他と大差ない軌跡だ。
そりゃそうだろう。
明治・大正・昭和戦中戦後と人生スタイルは限られていて、みんな似たりよったりだ。
特に竹富島の場合、まったくと言っていいほどに同じだ。
大抵は、島で小学校を出て、そのあとの教育を受けるために石垣島か台湾へ行く。
台湾で生活したり、戦後戻り、八重山で教師したり島に戻って暮らすとか、
それくらいで人生の選択肢は少なかったから。

今、三つくらいの家系図がだんだん枝が分かれていくようにどんどん伸びてきている。
困るのは、絡まっちゃってるんだ。関係が。


    私の書いている家系図や、聞き取りは、誰も書いてない部分だ。
    それはそれまで生きていた方の手前、言えなかった本物の父親だったり、本当の出所が明らかになってきつつあるから。

    門中のような立派なものをはじめとして基本的に沖縄の家系図は女性は書かない。
    ので、全然つかめなくなってしまう。
    沖縄返還前後あたりから書く人が出てきて、そのなかに女性が残す人が出てきた。
    画像の著者は、女性で元教師らしい。*主婦のようです


    今年に入ってからうれしいことに個人史が三冊ゲットできた。
    ますます家系図は枝分かれし、その枝は伸び続けていくのが追える。

    「八重山の舞踊と歌の将来への挑戦」


    竹富島出身の舞踊家「吉浜久枝」先生が、9月13日に石垣島石垣市民会館で踊りの会に出る。
    チラシが送られて来た。
    封筒を見ると、東京琉球舞踊会と印刷されていた。
    どうやら先生はそこに所属しているようだ。
    チラシの踊りは、「かしかき」
    *「かしかき」は小浜島の舞踊らしい

    先島諸島は昔、人頭税を取り立てられ苦しい生活を強いられてきたから琉球、首里に対していい思いを持っていなかった。
    八重山で島唄、島文化をやっている人のなかのスタンスとして紅型を着ない!など
    徹底的に首里・琉球に対して反骨をむき出しにしている方がおられる。
    そのくらいに、琉球である沖縄本島と先島諸島の温度差を感じるところもあった。
    今の若い人たちはどうだかわからない。
    オヤケ赤蜂のことを戦前の教育と戦後ではとらえ方がまった逆になってしまったらしいのだ。
    2014022213480000

    八重山での今の、オヤケ赤蜂評と戦中から教育を受け錦芳(きんぽう)氏(うじ)の流れをくんでいる人のまえでは、長田大司(ナータウーシュ)ナータウジを尊ぶように言い、オヤケ赤蜂のことなど口にできなくなってしまう。

    八重山と沖縄本島・琉球の微妙な位置関係がある。

    2014/10/22

    家紋(ヤーモン)


    竹富島のその昔は、長男が家を引き継ぎ、次男以降は家を出る。
    次男以降が家を外に作ると、島内に同じ姓が何件にもなってしまうので、家ごとに屋号を設ける。
    また、家ごとに「家紋(ヤーモン)」という家紋のような家の印を村番所の政策により届けていた。
    家判(ヤーバン)といい、その家の持ち物、家財道具、農具に印していた。