ラベル 不動産、 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 不動産、 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014/10/24

竹富島の土地

過疎にみられている竹富島。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。

島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。

認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。

そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの

実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。

竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。

父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。

竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。

昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?

私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。