この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」から
家系図・関係図書きがライフワーク。
家系図・関係図書きがライフワーク。
竹富島は、大山が多い。大山という一人の男から多くの大山子孫が生まれている。大山姓もそこそこいるが、女性が嫁ぎ先の姓になったり、改姓した家も多いのでよほど竹富島の家々に精通した人でないと一見わからない。
私は大山一族ではないので、あまりよくわからない。
私が、手をつけている家系図は、前新家(マエアラヤー、イルマイアラヤー、ヒソーリャ、ソーリャ)仲盛家(ナカウラヤー)、内盛家(ウチウラヤー)、前請盛家(マエキューリャー)、古堅家(ハエモリヤー)、登野城家(トノキャ)富本家(マイアル―リヤ)。
だいたい明治政府以降、親の記述が江戸時代末の生まれくらいの記録や聞きかきでどんどん書き伸ばしている。
まずわかり易い例。
新(アラ)家の長男が新家を引き継ぐから、そのまま新家となる。

次男が新家から分家して、新家の前に家を創建すると「前新」になる。
じゃ、後ろに家を建てると「後新」
新家の東側に建てると「東新」
新家の西側に建てると「西新」といった規則性で姓が作られている。
二つの家で補いながら家を継いでいる。
A家で男の子が絶えるとB家から男の子を出しよそから嫁をもらいA家を継いだカタチにする。そうやって何百年もやってきた。近親婚が多い。
今回書いた大山門中だが、私の場合は錦芳氏、嘉善姓とまたがっており、このあたりのことはおいおい書いていくことにする。
前洛、沖縄県南城市久高島に暮らしている67歳の内間一浩と申します、私の祖父ちゃん(内間加那)1890年(明治23年)頃に竹富島で生まれて7歳頃に母と別れて父親の故郷の久高島に帰ってきたとの話は聞いていますが、祖父ちゃんも1961年(昭和36年)71歳で亡くなり今となっては親族もわかりません勿論、祖父ちゃんや私の父親が生存中は八重山からの親戚との繋がりもありましたが、世代が下るにつれて、手がかりも無くなってます。私自身2023年1月28日に竹富島に2回目の来訪をしましたが、公務であり自分の祖先を訪ねる事は出来ませんでした。
返信削除集落内を歩いてる最中も、私の曾ばちゃんは、この島で没したであろう事を思いながら歩いていると、祖先を探してみたくなりました。
勝手ながら宜しくお願いいたします。
ありがとうございます。最近、全然ブログ運営してなく、本日2023/3/5で確認した次第です。すみません。ぜひ、お知りになりたいこと協力させてください。お父様のお祖父様、お祖母様の名前や屋号や何かもうちょっとわかれば辿っていけます。ぜひ、先祖について探究されて離れた土地からでも先祖を思い手を合わせれば供養になり、内間さんの人生に何かしらの繁栄があることだと思います。
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