2015/11/20

種子取祭2015.11

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竹富島の最大の行事「種子取祭」(たねとりさい:竹富方言読み「たなどぅい」)毎年、10月~12月の間の庚の寅の日、辛の卯の日は、種子取祭の奉納芸能の日。今年、数十年ぶりに行ってみた。芸能奉納の会場に入ってくるところ。
太鼓から。

この前に御嶽に仕える神司(つかさ)が先頭にいたが、撮影は遠慮しておいた。男性陣は、神司のフォーローのようなお役目の人や村長とか、東京・沖縄等々の他郷友会会長の面々。早朝5時から、きちんと古来に習っての儀式を終え芸能会場に入って来た。
棒の演技、太鼓等々の庭の芸能で土地を清める。

馬ぬしゃ。

舞台は、簡素な特設。
赤馬(あかんまー)二才踊りは、たいていが小5~高校生くらいの女の子
しきた盆


もちろん、「いいやち」この「いいやち」実は不評で・・・みんなが言うには練りが足りないらしく、よそのお宅でいただいたものと比べるとおこわぽかった。でも、本土から行った者にとってはすっごくおいしかった~。

途中、会場を抜け出して、祖母の実家である私の受け継ぐ屋敷に行ってみた。ひどいことになっている。一年前に来た時よりもさらにアマゾン化している~。
撮影陣。


照明
音響


鬼狂言(うんきょんぎん)
鬼狂言の準備でライトの調整設置。

鬼ががんばってる~!

今回、時間いっぱい、「石垣港行き船の最終便にじゅうぶん間に合うようにしますから最後の鬼狂言(うんきょんぎん)まで見てくださいと」終盤の途中でアナウンスがあっての鬼狂言だった。これが終わり、さーと会場は人がはけていった。600年昔から続く国指定の重要無形文化財になっている。

初日の夜に「ユークイ」という一件、一件の家を訪れる夜通しまわりもあるのだが私は参加がままならなかった。竹富島の人、出身者、私のように竹富島の子孫たちの間で毎年、毎度、種子取祭のことでいつも思いがいっぱい。竹富島の人、出身者が盛り上がるのが干支の年の人の「生り年の祝い(まりどしのいわい)」で盛大にお祝いをするのがならわし。沖縄の竹富郷友会でもお祝いを配ったり、個人でも各家庭で盛大な誕生会をやる。でもなんといっても種子取祭の時期に合わせて、同窓会や八重山全土の祝いが一番大きな祝い。今年、数えで85歳の祝いの伯父(実際は84歳だが、かぞえで言い表すなごり)と泊まらせていただいているい親戚の女性が61歳の祝い・還暦の祝いで苦しそうな咳をしながら毎夜遅くまで宴席に参加し続けていた。八重山では命がけで祝いをやらなくてはならない。これからも竹富島の種子取祭関連の祝い情報を拾い集めていきたい。

2015/06/27

東京竹富郷友会の発足


大正14年に東京、京橋、現在の中央区八丁堀付近の「田中屋」というお蕎麦屋さんでスタートしたと聞いていた。

だいたい大正10年あたりから上京する者がではじめ、大正14年時には二十余名が東京にいたことになる。

関東大震災が大正12年の9月1日に起こった。
この震災によって全国の支援金・支援の会「同潤会」が建てた同潤会アパートに住んだ者がていどんにもいた。

この頃、目黒あたりで事務所を置いていたが京橋に移したという。

東京竹富郷友会の今は亡き、もしくわ現役を退いた方々の残した資料から当時を察している。

個人的に話を聞くと、親戚関係ならではのことや内輪だけで流れていた情報もある。もちろん資料には記載はない。

郷友会の発端は、嘉利勇士会という航海安全を祈ったカリユシにちなんだものらしい。

初代の会長は、崎山用枝。
それは一番年長からだという。

昭和の戦争前にかなりがんばって会を発展させた。
「曙光」という月刊誌をつくったりと・・・。
でも南洋に行く者、満州へ行く者と状況は変化の連続だった。

昭和35年の創立35周年記念行事の際には、民俗学の柳田国男、早大の本田安次、画家岡本太郎らを招待したそうだ。

柳田国男、本田安次氏を総会に招いたのは現会長のお父様の瀬戸修氏。

2015/06/10

昭和40年代の東京竹富郷友会総会は・・・



昭和40年代の東京竹富郷友会は・・・

現会長の瀬戸克氏のお父様が会長や幹事等をやられていたころ。
瀬戸克会長は、テレビ関係の仕事をしていた。
郷友会ではおおかた余興の部の司会をしていた。

もう、当時の事を知る人は少なくなった。

俳優・タレントの野呂圭介氏が看板持って、ヘルメット姿で理不尽となった状況の中に飛び込んで来て「どっきりテレビです」とその場を収め笑いで立ち去る元祖どっきりテレビ。

郷友会総会の最中に野呂圭介氏がお決まりのスタイルで登場!
何も聞かされていない総会参加者たちで場内が沸いた。
そういった斬新な企画を取り込んだのが瀬戸克会長だった。

沖縄返還前後で、沖縄が、八重山が東京に近くなり始めた頃のことだった。


2015/06/09

第90回郷友会



2015.6.7(日)
王子の「北とぴあ(ほくとぴあ)」にて
午後1時よりさくらホールにて踊り・狂言の記念公演

午後5時より13階のホールに移動して東京竹富郷友会を開催。

今回90周年記念事業ということで盛りだくさんで八重山の郷友会という郷友会が参加くださいました。

竹富町長と撮るシーン
 八重山民族舞踊七峰会 吉浜久枝先生


今回、90周年ということで記念事業企画として公演会を大きくやったわけですが、そのあたりのことを現会長瀬戸克氏に直接伺いました。
それと戦後の郷友会の足取り、舞踊の継承の流れ等を吉浜先生に少しだけうかがったことはの次回のメールマガジンで。

2015/05/30

来たる東京竹富郷友会90周年

来週の2015.6.7(日)が東京竹富郷友会の90周年記念公演と総会です。

あっちこっちで宣伝しているので竹富ファンの方はもちろんご存じで
話題になっていることでしょう。
私はひとり竹富島郷友会としてメルマガに今号では戦後の東京竹富郷友会のことなどに触れています。

実名等が載っていますし、父の書きためた原稿を公開しています。
今後も続々と竹富島にまつわる戦前・戦中・戦後や郷友会のことや資料等を記録していきます。
メルマガ購読はこちらから。

2015/05/25

芸能天才「マエアラ長成」

竹富の近年の芸能の発展や保存はどう行われていったのでしょうか?
沖縄本島へ自由に行けるようになった昭和。
見聞の為に本島の芝居を見に前新長成は出かけた。

前新長成は、人並み外れた記憶力、
整ったマスク、見る人を魅了していた。
(何人かの高齢女性に話を聞いて回って知った)
口を揃えてみな「マエアラ」の一番上の人は踊りがステキだった。
教えて!教えて!
踊って!踊って!と女性たちはくらいついていた。

どうやって踊り、芸能を吸収していったかというと・・・
二人で沖縄本島へ行き、
芝居を見て、
「あんたは、女のセリフ覚えろ、
こっちは男のセリフ覚えるからさ」
ということで学ぶつもりだった・・・。

が、女のセリフを覚えるはずの者がまったく覚えていないことが判明!
長成は、なんと男のセリフ、女のセリフの両方を覚えてしまっていた~!!
とにかく、覚えるのが早い。
モノにするのが上手い人だったそうだ。
今に広がる竹富の芸。
天才的な前新長成の行動があった。

女性たちの間(80歳以上の)で今も話題に出るのに、
なかなか竹富の歴史には名前が出てこない。

芸能の天才的美男子「前新長成」のエピソードを残しておきたいと思った。


2015/05/01

東京竹富郷友会創立90周年


東京に竹富島の人々が定住しはじめ、郷友会が発足して90年となりました。
と、いうことで6月7日に記念事業として、竹富、石垣、沖縄本島そして東京の芸能関係者が集結して公演を行います!
踊り、歌にたいへんにぎやかに90周年を祝います!

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