2017/08/17

東京竹富郷友会、役員会記録

昭和43年~45年にかけての東京竹富郷友会の役員会のノート。
A5サイズの昔の大学ノート。



当時の役員会は、個人宅に集まっていた。
郷友会の総会会場について、地域の公民館等の舞台を借りて行うが。
利用料が高いなどのこと、演芸の練習、役割分担等が書かれている。
竹富島から上京してきた人の歓迎会が度々開かれていた。
また、このノートには会と並行して一部の有志がやっていた頼母子の名記、払い込み金額。落札者等の記録がされていた。

ノートの記録の筆跡から数人によって書かれたものということがうかがえる。
表紙の判で押された「東京竹富郷友会」の上には当時の会長の瀬戸家の住所。下には電話番号。この当時の瀬戸家自宅は、まだアパートのようなところだったと記憶している。
数回行ったが私は当時幼児だったので記憶はあいまいだ。

2017/05/31

第92回東京竹富郷友会総会

第92回東京竹富郷友会の総会が北とぴあにて行われました。

今回は、前回より会場が都心よりで駅と直結してる利便性などなどでちょっと去年より参加者多め…とはいっても年々参加者は減っています。
最後の巻き踊り
久々に会った親戚と
めちゃうまかったぱフォーマンス舞踊を披露された東民雄さんと

東さんの舞踊、パォーマンスのレベルの高さは、竹富島関連の方は子供のころに種子取祭で踊ったり、郷友会で「じっちゅ」にかりだされたり、小さなときに「じゅんさーみ」踊らされたりするので誰でも踊りを経験しているので、東さんの舞踊(厳密にいうとまね)のうまさがわかるのでとくに女性たちはポーとして見つづけていました。
兄弟踊り
竹富島出身者でなく竹富島ファンとして演奏してくれた「まいじっちゅう」
沖縄でも何でもないのに好きになってくれて舞台に出てくれるなんてうれしいです。
会場様子

元会長富野芳江乾杯!
じっちゅ
今回の総会は、特にゲストはなく、年々、会員、出席者が減っていくさまや竹富島の社会での位置関係や島意識の変化など感じる空気ありました。

2017/05/01

東京竹富郷友会総会の第92回ご案内

毎年5月~6月くらいに開かれる竹富郷友会の総会。
総会・演芸等の懇親会のご案内が送付されました。
届いてない方、登録しているのに案内がないという方は、
現竹富郷友会大谷喜久男会長に連絡いただくか、当日5月28日(日)13:00~
北区王子の北とぴあ13階飛鳥ホールに直接お越しくださいませ。
年会費・懇親会費の登録お支払いください。
演芸飛び入り参加歓迎ということです!


東京自由が丘の睦美会に会長夫妻が見えまして総会の宣伝をたっぷりしていました。



2017/04/25

水中眼鏡

これは昭和15年~22年くらいの間、竹富島で育った父の使っていた水中眼鏡。
廃材や木を削ったりその辺にあるモノを組み合わせて作ったそう。
もともとモノのない沖縄の離島で戦争でさらにモノがなく、工夫だけがたより。
シンプルだがよくできている。
ゴムがけっこういいものなので、当時のモノだかは定かではない。
ただ、こんなものだったということで紹介することにした。
戦争中、若い大人のいなくなった竹富島。
遠い海に行った兄さんや父親、叔父さんたちを思いながら
割り当てられた土地に芋を植え食い扶持を補っていたという。


むーゆんなー

父の家庭は、よその家とは事情が違って、父親がいなかった。戦争に行ったのではない。
父は戦争直前に当時、日本統治だったサイパンから戦争になるということで身重の父の母親、妹と弟と四人だけ日本に強制的に返されたのだ。
ただし父の父親は、現地に残らなければならなかった。
それは・・・当時、現地の日本の逓信省の職員でモールス信号など発信したりする業務があるので残されたのだという。

父親のいない家庭で四人の子供たちは、手探りで畑をやる。
芋を育て収穫する際、未成熟の芋が残る。それが「むーゆんなー」
金がなく、あてにしていた親戚はあてにならず子供が家を支えなくてはならなかったとき、幼い父たち兄弟はまず畑に残されたむーゆんなーを拾うことからはじめたのだという。

2017/03/28

「あちょうろー」

 この風呂敷は、40数年前にある人が配った記念品。
仲盛清さんが上京したことを記念して作った風呂敷。
人頭税が終わって納税が物納から現金納税となった頃、竹富島の人々はお金を持ってなかった。

仲盛の清さんは、島民から豆やら織ったミンサーの帯などを預かって石垣島へ持ち寄りお金に換えるという仲買業をやっていた。

あちょうろーとは、仲買などの商売人のことを言うらしい。

1965年というとけっこう最近で上京がそれほど難しくない頃だったが、この頃の清氏は、80代になっており、竹富島から東京へ来れたことがよほどうれしかったのだろう。
わざわざ名入れの風呂敷を配ったりすることに当時の人にとっての上京の価値が読み取れる。



2016/12/28

現代の真栄の死

戦後、西表島に移り住んだ大谷用次さんは、現代の真栄と呼ばれていた。
大谷用次さんは、2016.12.17に104歳でお亡くなりになりました。
八重山の地元新聞に載った大谷用次さんの訃報の記事


大谷用次さんが編集された大家と宮良家の系図。
「大」から改名して「大谷」と名乗るようになった。

参考家系図

お願いをして大谷用次さんにお会いする機会をいただいていた。2014.2月のことでした。

竹富島で生まれ育った大谷用次さんは、早くに台湾へ渡り、様々な経験・英語力を身に着け南洋に移り住んでいた。
当時の状況を伺った。


大正時代に生まれ、竹富小学校を卒業(当時は尋常小学校)すると二人の姉を頼って台湾へ渡り洋服店に丁稚奉公をする。
当時、竹富島では見ることはなかった自転車に乗ることを覚え、竹富島では方言のみだったが多くの日本人、日本語教育された台湾人のなかで標準語を話すようになる。
病気で看病を必要とする父が待つ竹富島へ一旦戻るが、当時日本統治だった南洋のロタ行きの話が出て横浜経由で南洋ロタ、テニアンへ移動する。そこで戦争を体験することになる。

戦争中の異常事態、想像を絶するような体験をし戦後妻子と竹富島へ戻るが、方々へ散っていた竹富人が一挙に島へ復員するとたちまち竹富島は飽和状態となってしまう。

西表島への開拓移住の募集があるが、多くの人がマラリアで命を落とした西表島へは誰も行こうとしないなか、意を決して西表島の開拓に乗り出すことに。
日本のアマゾン西表島を農地とすべく開墾するのは並大抵のことではない。
昔、人頭税で作物が育ちにくい土壌の竹富島から西表島へひとり乗り込んだ真栄。まるで真栄のようだということで、大谷用次さんは現代の真栄と言われる由縁。


ご冥福をお祈りいたします。

2016/12/27

東京竹富郷友会90周年記念誌

先月、二年前に90周年を迎えた東京竹富郷友会の記念誌が届いた。これを最初に目にしたのは竹富島の知人宅で。

郷友会は、大正時代に発足をして度々、会の名称を変え東京竹富郷友会として今に至る。
今誌は、今までの記念誌をなぞらえるような大枠なつくりとなっている。
郷友会を支えてきた重鎮たちがここ数年の間に続々と亡くなり、存命の方々もすっかり会に顔を見せなくなってきている。

そんななか、試行錯誤?と思われるほどに懸命に作られたように感じられた。
90周年とあって鳴り物入りで寄付を募られたのだが、期待に反して90年という長い濃い年月はさらりとしているよなボリューム感となっている。

それは、東京竹富郷友会の会員、役員らの関係、、現状を現しているように思える。
封筒はこういう感じで渋いデザインになった。