2017/04/25

水中眼鏡

これは昭和15年~22年くらいの間、竹富島で育った父の使っていた水中眼鏡。
廃材や木を削ったりその辺にあるモノを組み合わせて作ったそう。
もともとモノのない沖縄の離島で戦争でさらにモノがなく、工夫だけがたより。
シンプルだがよくできている。
ゴムがけっこういいものなので、当時のモノだかは定かではない。
ただ、こんなものだったということで紹介することにした。
戦争中、若い大人のいなくなった竹富島。
遠い海に行った兄さんや父親、叔父さんたちを思いながら
割り当てられた土地に芋を植え食い扶持を補っていたという。


むーゆんなー

父の家庭は、よその家とは事情が違って、父親がいなかった。戦争に行ったのではない。
父は戦争直前に当時、日本統治だったサイパンから戦争になるということで身重の父の母親、妹と弟と四人だけ日本に強制的に返されたのだ。
ただし父の父親は、現地に残らなければならなかった。
それは・・・当時、現地の日本の逓信省の職員でモールス信号など発信したりする業務があるので残されたのだという。

父親のいない家庭で四人の子供たちは、手探りで畑をやる。
芋を育て収穫する際、未成熟の芋が残る。それが「むーゆんなー」
金がなく、あてにしていた親戚はあてにならず子供が家を支えなくてはならなかったとき、幼い父たち兄弟はまず畑に残されたむーゆんなーを拾うことからはじめたのだという。

2017/03/28

「あちょうろー」

 この風呂敷は、40数年前にある人が配った記念品。
仲盛清さんが上京したことを記念して作った風呂敷。
人頭税が終わって納税が物納から現金納税となった頃、竹富島の人々はお金を持ってなかった。

仲盛の清さんは、島民から豆やら織ったミンサーの帯などを預かって石垣島へ持ち寄りお金に換えるという仲買業をやっていた。

あちょうろーとは、仲買などの商売人のことを言うらしい。

1965年というとけっこう最近で上京がそれほど難しくない頃だったが、この頃の清氏は、80代になっており、竹富島から東京へ来れたことがよほどうれしかったのだろう。
わざわざ名入れの風呂敷を配ったりすることに当時の人にとっての上京の価値が読み取れる。



2016/12/28

現代の真栄の死

戦後、西表島に移り住んだ大谷用次さんは、現代の真栄と呼ばれていた。
大谷用次さんは、2016.12.17に104歳でお亡くなりになりました。
八重山の地元新聞に載った大谷用次さんの訃報の記事


大谷用次さんが編集された大家と宮良家の系図。
「大」から改名して「大谷」と名乗るようになった。

参考家系図

お願いをして大谷用次さんにお会いする機会をいただいていた。2014.2月のことでした。

竹富島で生まれ育った大谷用次さんは、早くに台湾へ渡り、様々な経験・英語力を身に着け南洋に移り住んでいた。
当時の状況を伺った。


大正時代に生まれ、竹富小学校を卒業(当時は尋常小学校)すると二人の姉を頼って台湾へ渡り洋服店に丁稚奉公をする。
当時、竹富島では見ることはなかった自転車に乗ることを覚え、竹富島では方言のみだったが多くの日本人、日本語教育された台湾人のなかで標準語を話すようになる。
病気で看病を必要とする父が待つ竹富島へ一旦戻るが、当時日本統治だった南洋のロタ行きの話が出て横浜経由で南洋ロタ、テニアンへ移動する。そこで戦争を体験することになる。

戦争中の異常事態、想像を絶するような体験をし戦後妻子と竹富島へ戻るが、方々へ散っていた竹富人が一挙に島へ復員するとたちまち竹富島は飽和状態となってしまう。

西表島への開拓移住の募集があるが、多くの人がマラリアで命を落とした西表島へは誰も行こうとしないなか、意を決して西表島の開拓に乗り出すことに。
日本のアマゾン西表島を農地とすべく開墾するのは並大抵のことではない。
昔、人頭税で作物が育ちにくい土壌の竹富島から西表島へひとり乗り込んだ真栄。まるで真栄のようだということで、大谷用次さんは現代の真栄と言われる由縁。


ご冥福をお祈りいたします。

2016/12/27

東京竹富郷友会90周年記念誌

先月、二年前に90周年を迎えた東京竹富郷友会の記念誌が届いた。これを最初に目にしたのは竹富島の知人宅で。

郷友会は、大正時代に発足をして度々、会の名称を変え東京竹富郷友会として今に至る。
今誌は、今までの記念誌をなぞらえるような大枠なつくりとなっている。
郷友会を支えてきた重鎮たちがここ数年の間に続々と亡くなり、存命の方々もすっかり会に顔を見せなくなってきている。

そんななか、試行錯誤?と思われるほどに懸命に作られたように感じられた。
90周年とあって鳴り物入りで寄付を募られたのだが、期待に反して90年という長い濃い年月はさらりとしているよなボリューム感となっている。

それは、東京竹富郷友会の会員、役員らの関係、、現状を現しているように思える。
封筒はこういう感じで渋いデザインになった。

2016/12/24

西表島に一時間だけ行った

引越し記事(ブログ開けられなくなったので越してきた)

朝一便の船に乗る
思い立ったら吉日な私。朝5時に目が覚めて6時半にホテルを出たら石垣島から朝一の7時10分発の西表島行きの船に乗り込んだ。朝7時10分ということでさすがに観光客はおらずみな西表島へ仕事で行く(通勤)人ばかり。
石垣島から西表島はけっこう乗りでがある。
今まで竹富島にしか行ったことがなかったのですっごく遠くに感じました。
船に乗りあった人々はみな神妙で竹富島へ行くときのようなワイワイモードじゃなくて、こうも空気違うのか~。

船が比較的小さめ?だったのか、けっこう揺れました。

いくつもの島を抜け、海面の色は真っ黒いところやきれいに半透明のグリーンや紺色や今まで見た海とは違った表情を見ました。

島に着くと広いけど閑散としていた。雨上がりで八重山にしてはちょっと寒め。
っていうか、朝だし港だから海風がちょくだから寒いかも・・・
外国人観光客がスマホしていた。しかもガール!
どうやらこの看板の坂を上った先にありそうです。

きっと犯罪はないのか~?のどかな駐在所。
坂を上りきると西表島の繁華街?の大原交差点。車の往来ない。もっとも朝8時前だから。


しかもレンタカー屋さん!いいね!
なんと宅配も充実している!
竹富町初のシェアオフィス

竹富町西表島にWi-Fiのネットが使えるシェアオフィスが出来たことを知り、今回はこれをどうしても見たかったのです。
朝早すぎ(午前10:00オープン)しかも(11月3日文化の日:祝日)のためお休みみたいなので行っても外観を見るのみだけどネットの画像で見るのと実際に行くのとは全然違うので行かなくちゃと!思いは止まらなかった。

石垣島→西表島http://www.aneikankou.co.jp/water_routes/detail/ohara

シェアオフィスhttps://www.facebook.com/taketomi.tel/

2016/12/23

沖縄ITの仕事事情

以下は、別ブログからの移転記事です。(新設したブログですが、開けられなくなったため)

10月の最終土曜日。沖縄竹富島への移住を考えているので沖縄の情報を集めるために行ってきました。
沖縄IT就職フェア

沖縄のIT仕事の就職フェア「IT Career沖縄



私はITでもなく、就労希望でもないが、沖縄が東京での就職イベントをすると聞き、空気を知りたいと思い行ってみました。

26社の企業がブースを設けていた。

今まではアジアと直に日本本土を海底光ケーブルが結ばれていたが、2016年春からアジアからの海底ケーブルを沖縄に陸揚げするスマートハブ構想を2015年9月に内閣府からの交付決定されてからの展開が始まっている。

そこで沖縄へのIT企業の進出などから多くのIT人材が求められる。そういう流れから沖縄へのIT人材や移住などを呼びたいと沖縄県は県外でイベントを行ってるようです。

2016/12/03

竹富島史

これは、この竹富島三世と並行して一時期書いていた姉妹ブログ「竹富島学習」からの一部転載です。竹富島学習では2015.12.12に書いてました。
竹富島の文化史に対してがんばっていた阿左伊孫良さんがいた。東京の大学に進学した当時竹富島から上京していた人々を訪ねて情報を収集していたらしい。

手にしているのは、これ
ここには、東京竹富郷友会の現会長のお父様が、民俗学の本田安次氏、柳田国雄氏、画家の岡本太郎氏と池袋の居酒屋で知り合い東京竹富郷友会の三十五周年記念に出席していただくようにお願いしたエピソード等も載っている。
子供時代の上勢頭(うえせど)亨さんが、風呂焚きの火付けに使われていた村番所時代の文書を数冊持ち帰った。それを後々、古文書を読める阿佐伊孫良さんが現代文に解いて資料化したのがこの本。私がこの巻だけを買ったのは、曾祖父の記述があるので阿佐伊孫良さんに勧められたから。その竹富島近代史の勉強会を阿佐伊孫良さんがやっていたという。