これは昭和15年~22年くらいの間、竹富島で育った父の使っていた水中眼鏡。
廃材や木を削ったりその辺にあるモノを組み合わせて作ったそう。
廃材や木を削ったりその辺にあるモノを組み合わせて作ったそう。
もともとモノのない沖縄の離島で戦争でさらにモノがなく、工夫だけがたより。
シンプルだがよくできている。
ゴムがけっこういいものなので、当時のモノだかは定かではない。
ただ、こんなものだったということで紹介することにした。
戦争中、若い大人のいなくなった竹富島。
遠い海に行った兄さんや父親、叔父さんたちを思いながら
割り当てられた土地に芋を植え食い扶持を補っていたという。
むーゆんなー
父の家庭は、よその家とは事情が違って、父親がいなかった。戦争に行ったのではない。
父は戦争直前に当時、日本統治だったサイパンから戦争になるということで身重の父の母親、妹と弟と四人だけ日本に強制的に返されたのだ。
ただし父の父親は、現地に残らなければならなかった。
それは・・・当時、現地の日本の逓信省の職員でモールス信号など発信したりする業務があるので残されたのだという。
父親のいない家庭で四人の子供たちは、手探りで畑をやる。
芋を育て収穫する際、未成熟の芋が残る。それが「むーゆんなー」
金がなく、あてにしていた親戚はあてにならず子供が家を支えなくてはならなかったとき、幼い父たち兄弟はまず畑に残されたむーゆんなーを拾うことからはじめたのだという。