2015/11/23

竹富島親睦会「睦美会」

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沖縄文化のなかに「睦む」というものがあり、竹富島のことばに「賢しくさや睦ぐみど勝りょーる」というのがある。みなが睦んでいくことが賢いというような意味。竹富島文化圏のなかにはいくつかの親睦会がある。私が父の後を引き継ぎ参加しているのが東京・自由が丘を定例会場としている睦美会。

睦美会・・・
昭和40年、東京にて竹富島出身者の60歳以上の有志で「年寄り会」として発足した。その後、竹富島出身者、その子供二世等、竹富島にかかわりのある者が少しづつ加入し(加入条件がゆるくなって)、現在は竹富島のファンで会員全員の了承が加入条件。
今年で睦美会発足50年となる。そこで来年3月に大きなイベントを企画している。私はその記念イベントの記念誌の編集を担当することになった。以前、父がもうひとつの親睦会の記念誌の編集をしたことがる。父の後を継いで活動している流れからすると自然な流れといえる。 問題点が・・・発足当時から構成されていた会員の頃は、竹富島ソウルで原稿の集まりがよく、結束固かったけど・・・生粋の竹富島ッ子は三名のみ、あとは子供のうちに島を出た者、上京した者や二世、三世、竹富島とは一切縁はないが熱烈なファンという会員構成の現状では、打てば響くよな反応は望めない。それで原稿をお願いするのではなくアンケートというかたちにした。それでも集まりは悪い。なかには単なる飲み会として理解しているような人もいる。沖縄で結束する親睦会は、それぞれのポリシーがある。私が子供の頃、沖縄で両親が入っていた親睦会は、母の従兄弟たちで構成されている「従兄弟会」だった。父が加入していた東京でのもうひとつの親睦会は個人事業家中心の会だった。確かに集合して飲むだけのことかもしれないが、会としてくくることにおいて一体感というか家族エネルギーみたいな感覚が生まれ文化として証を残したくなる。それが沖縄文化だと感じている。

2015/11/21

石垣島の一般家庭

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石垣島の親戚の家
弥勒面、あんがま、三線が飾ってある
11月だというのに扇風機、活躍中!
大切なことば・・・守りましょう!無理やりなカンジは否めませんが。
スーパーで買ってくれたじゅうしいおにぎり。安いな~。しかもおいしいときている!石垣島は低賃金。こういうことから低賃金になるのか?低賃金だからこうなるのか?石垣市は、人口4万人らしいが、実際のところは本土からの移住者で5万人弱らしい。

八重山地方紙に種子取祭

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種子取祭の一日目の記事が八重山地方紙のトップに!
庭の芸能の馬ぬしゃ。

戦争中に竹富小学校(当時は、国民学校)の卒業証書を受け取ることができなかった85歳(かぞえなので、実年齢は84歳)になった今、卒業証書を手にした。ここには写ってないが、私の伯父も卒業証書をもらったらしい。伯父は疲れてこの会場に行かなかったとのこと。


2015/11/20

種子取祭2015.11

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竹富島の最大の行事「種子取祭」(たねとりさい:竹富方言読み「たなどぅい」)毎年、10月~12月の間の庚の寅の日、辛の卯の日は、種子取祭の奉納芸能の日。今年、数十年ぶりに行ってみた。芸能奉納の会場に入ってくるところ。
太鼓から。

この前に御嶽に仕える神司(つかさ)が先頭にいたが、撮影は遠慮しておいた。男性陣は、神司のフォーローのようなお役目の人や村長とか、東京・沖縄等々の他郷友会会長の面々。早朝5時から、きちんと古来に習っての儀式を終え芸能会場に入って来た。
棒の演技、太鼓等々の庭の芸能で土地を清める。

馬ぬしゃ。

舞台は、簡素な特設。
赤馬(あかんまー)二才踊りは、たいていが小5~高校生くらいの女の子
しきた盆


もちろん、「いいやち」この「いいやち」実は不評で・・・みんなが言うには練りが足りないらしく、よそのお宅でいただいたものと比べるとおこわぽかった。でも、本土から行った者にとってはすっごくおいしかった~。

途中、会場を抜け出して、祖母の実家である私の受け継ぐ屋敷に行ってみた。ひどいことになっている。一年前に来た時よりもさらにアマゾン化している~。
撮影陣。


照明
音響


鬼狂言(うんきょんぎん)
鬼狂言の準備でライトの調整設置。

鬼ががんばってる~!

今回、時間いっぱい、「石垣港行き船の最終便にじゅうぶん間に合うようにしますから最後の鬼狂言(うんきょんぎん)まで見てくださいと」終盤の途中でアナウンスがあっての鬼狂言だった。これが終わり、さーと会場は人がはけていった。600年昔から続く国指定の重要無形文化財になっている。

初日の夜に「ユークイ」という一件、一件の家を訪れる夜通しまわりもあるのだが私は参加がままならなかった。竹富島の人、出身者、私のように竹富島の子孫たちの間で毎年、毎度、種子取祭のことでいつも思いがいっぱい。竹富島の人、出身者が盛り上がるのが干支の年の人の「生り年の祝い(まりどしのいわい)」で盛大にお祝いをするのがならわし。沖縄の竹富郷友会でもお祝いを配ったり、個人でも各家庭で盛大な誕生会をやる。でもなんといっても種子取祭の時期に合わせて、同窓会や八重山全土の祝いが一番大きな祝い。今年、数えで85歳の祝いの伯父(実際は84歳だが、かぞえで言い表すなごり)と泊まらせていただいているい親戚の女性が61歳の祝い・還暦の祝いで苦しそうな咳をしながら毎夜遅くまで宴席に参加し続けていた。八重山では命がけで祝いをやらなくてはならない。これからも竹富島の種子取祭関連の祝い情報を拾い集めていきたい。

2015/06/27

東京竹富郷友会の発足


大正14年に東京、京橋、現在の中央区八丁堀付近の「田中屋」というお蕎麦屋さんでスタートしたと聞いていた。

だいたい大正10年あたりから上京する者がではじめ、大正14年時には二十余名が東京にいたことになる。

関東大震災が大正12年の9月1日に起こった。
この震災によって全国の支援金・支援の会「同潤会」が建てた同潤会アパートに住んだ者がていどんにもいた。

この頃、目黒あたりで事務所を置いていたが京橋に移したという。

東京竹富郷友会の今は亡き、もしくわ現役を退いた方々の残した資料から当時を察している。

個人的に話を聞くと、親戚関係ならではのことや内輪だけで流れていた情報もある。もちろん資料には記載はない。

郷友会の発端は、嘉利勇士会という航海安全を祈ったカリユシにちなんだものらしい。

初代の会長は、崎山用枝。
それは一番年長からだという。

昭和の戦争前にかなりがんばって会を発展させた。
「曙光」という月刊誌をつくったりと・・・。
でも南洋に行く者、満州へ行く者と状況は変化の連続だった。

昭和35年の創立35周年記念行事の際には、民俗学の柳田国男、早大の本田安次、画家岡本太郎らを招待したそうだ。

柳田国男、本田安次氏を総会に招いたのは現会長のお父様の瀬戸修氏。

2015/06/10

昭和40年代の東京竹富郷友会総会は・・・



昭和40年代の東京竹富郷友会は・・・

現会長の瀬戸克氏のお父様が会長や幹事等をやられていたころ。
瀬戸克会長は、テレビ関係の仕事をしていた。
郷友会ではおおかた余興の部の司会をしていた。

もう、当時の事を知る人は少なくなった。

俳優・タレントの野呂圭介氏が看板持って、ヘルメット姿で理不尽となった状況の中に飛び込んで来て「どっきりテレビです」とその場を収め笑いで立ち去る元祖どっきりテレビ。

郷友会総会の最中に野呂圭介氏がお決まりのスタイルで登場!
何も聞かされていない総会参加者たちで場内が沸いた。
そういった斬新な企画を取り込んだのが瀬戸克会長だった。

沖縄返還前後で、沖縄が、八重山が東京に近くなり始めた頃のことだった。


2015/06/09

第90回郷友会



2015.6.7(日)
王子の「北とぴあ(ほくとぴあ)」にて
午後1時よりさくらホールにて踊り・狂言の記念公演

午後5時より13階のホールに移動して東京竹富郷友会を開催。

今回90周年記念事業ということで盛りだくさんで八重山の郷友会という郷友会が参加くださいました。

竹富町長と撮るシーン
 八重山民族舞踊七峰会 吉浜久枝先生


今回、90周年ということで記念事業企画として公演会を大きくやったわけですが、そのあたりのことを現会長瀬戸克氏に直接伺いました。
それと戦後の郷友会の足取り、舞踊の継承の流れ等を吉浜先生に少しだけうかがったことはの次回のメールマガジンで。