2014/10/23

家系図


戸籍を取ったり、門中の家系譜から家系図を書いていこうとしている。
うちらの場合、門中の外だから、おおかた残っていない。
もっぱら、聞き書きや個人が書いた個人史からそのカタチを辿るしかない。

母方の祖母の実家の家系図を書いて叔父に送ったら、それだったらきみにこれをあげるよと。
送っていただいた。
まだじっくりは読めていないが、大方は他と大差ない軌跡だ。
そりゃそうだろう。
明治・大正・昭和戦中戦後と人生スタイルは限られていて、みんな似たりよったりだ。
特に竹富島の場合、まったくと言っていいほどに同じだ。
大抵は、島で小学校を出て、そのあとの教育を受けるために石垣島か台湾へ行く。
台湾で生活したり、戦後戻り、八重山で教師したり島に戻って暮らすとか、
それくらいで人生の選択肢は少なかったから。

今、三つくらいの家系図がだんだん枝が分かれていくようにどんどん伸びてきている。
困るのは、絡まっちゃってるんだ。関係が。


    私の書いている家系図や、聞き取りは、誰も書いてない部分だ。
    それはそれまで生きていた方の手前、言えなかった本物の父親だったり、本当の出所が明らかになってきつつあるから。

    門中のような立派なものをはじめとして基本的に沖縄の家系図は女性は書かない。
    ので、全然つかめなくなってしまう。
    沖縄返還前後あたりから書く人が出てきて、そのなかに女性が残す人が出てきた。
    画像の著者は、女性で元教師らしい。*主婦のようです


    今年に入ってからうれしいことに個人史が三冊ゲットできた。
    ますます家系図は枝分かれし、その枝は伸び続けていくのが追える。

    「八重山の舞踊と歌の将来への挑戦」


    竹富島出身の舞踊家「吉浜久枝」先生が、9月13日に石垣島石垣市民会館で踊りの会に出る。
    チラシが送られて来た。
    封筒を見ると、東京琉球舞踊会と印刷されていた。
    どうやら先生はそこに所属しているようだ。
    チラシの踊りは、「かしかき」
    *「かしかき」は小浜島の舞踊らしい

    先島諸島は昔、人頭税を取り立てられ苦しい生活を強いられてきたから琉球、首里に対していい思いを持っていなかった。
    八重山で島唄、島文化をやっている人のなかのスタンスとして紅型を着ない!など
    徹底的に首里・琉球に対して反骨をむき出しにしている方がおられる。
    そのくらいに、琉球である沖縄本島と先島諸島の温度差を感じるところもあった。
    今の若い人たちはどうだかわからない。
    オヤケ赤蜂のことを戦前の教育と戦後ではとらえ方がまった逆になってしまったらしいのだ。
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    八重山での今の、オヤケ赤蜂評と戦中から教育を受け錦芳(きんぽう)氏(うじ)の流れをくんでいる人のまえでは、長田大司(ナータウーシュ)ナータウジを尊ぶように言い、オヤケ赤蜂のことなど口にできなくなってしまう。

    八重山と沖縄本島・琉球の微妙な位置関係がある。

    2014/10/22

    家紋(ヤーモン)


    竹富島のその昔は、長男が家を引き継ぎ、次男以降は家を出る。
    次男以降が家を外に作ると、島内に同じ姓が何件にもなってしまうので、家ごとに屋号を設ける。
    また、家ごとに「家紋(ヤーモン)」という家紋のような家の印を村番所の政策により届けていた。
    家判(ヤーバン)といい、その家の持ち物、家財道具、農具に印していた。

    2014/08/04

    沖縄返還前のパスポート

     私が幼いころ、両親と東京から3か月間沖縄・八重山へ行ったときのパスポートと本土から沖縄へ渡る際に出された身分証明書と予防接種の記録書。

    これが、当時の東京から沖縄へ行くときのパスポート
    内容はこのような
    身分証
    なかはこんなかんじ
    予防接種の証明
    なかはこんなかんじ
    荷物につけた札

    父の荷物の整理から出てきました。
    当時は、沖縄に行くときは、いちいち予防接種を受けていました。

    このときは、那覇まで船で行きました。
    これは普通なかんじで行った旅でした。この頃は、通貨はドルでした。

    竹富島の種取り祭に行き、石垣島の親戚のところへ寄り、あとは那覇の父の実家にしばらくいたそうです。


    当時(昭和42年)の頃は、竹富島の住居には、まだ電気の灯りがついてなかったそうです。何件かの親戚のお宅にまたがって泊まらせていただいたそうですが、夜になると真っ暗なので、みんな午後8時頃には寝ていたそうです。

    私は、竹富島の歴史とか親族・家系の流れを探求していこうとしていますが、実際の灯りがどうだったか?とか、その頃の社会とかはこういうところから推察できると思います。

    2014/07/07

    マラリア

    父方の祖母は、戦争中、マラリアにかかり苦しんだ。
    まず、高熱のため冷やし続けなくてはならない。つねに冷やすために水を流す工夫をした。見事に死の淵から戻った祖母。
    このマラリアは、どのような経緯を経て八重山にやってきたのだだろう。
    どうやら、犬が持てきたらしい。

    その昔、外国船が西表島に乗り上げたので、船を直して丁重にもてなしたとか。そのお礼として、犬を置いていったという。その犬にマラリアの菌がついていたのだか不明だが、この犬の出現後にマラリアが流行することになった。

    戦争中、強制疎開で西表に移動することになった学童。
    戦争で父の4年生時の担任の若い女性の先生が亡くなった。
    私は、昭和20年の5~6月頃に西表に空爆があったか調べたが、わからなかった。父に聞いた。「あー、それはね、マラリアで亡くなったんだよ」ということで、敵国の爆撃とかではなくてマラリアで亡くなったという。こういうことで、戦争中、空爆とか銃撃とかではなく、マラリアで亡くなった方がほとんどだったそうだ。
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    2014/07/06

    竹富島移住計画

    今年二月に竹富島,石垣島へ行ったときに親戚に「こっちで暮らせば」と言われた。「えっ?」とびっくりしたが、どうやらその方がよさそうなのだ。
    今、現在、父の荷物を整理しているが、未解決な書類や一族についての謎が次々と明るみになってきている。

    まず、曾祖父が明治38年あたりにすでに終わった人頭税の役人職から一般人になって竹富島に寄留民として入った。その記録が、竹富日記にあった。
    ここまでは、誰もが知ることができる公の記録だ。

    曾祖父がこのとき購入した鰹節をつくるための鰹漁、工場のための土地が事務上放置されていた。

    その土地は、遺跡発掘等で沖縄県が長年管理していたが、平成8年あたりに管理が市町村に移ったため竹富町役場から連絡があった。
    その電話を受けた父が曾祖父名の土地の相続のために一時期動いていたらしい。
    ところが、複雑な家族構成のため相続に必要な書類集め、印鑑をもらうためには大変だったらしく結局途中で放り投げた。
    結局、今になって私がその書類を見つけ、相続できる私たち以外の石垣島に在住している親類にこのことを持ちかけた。
    ひとつはこれで片付きそうだ!が、母方の祖母の実家が、相続されていなくてそのままになっているので、こっちの相続の行方にかかわることになった。

    曾々祖母の生まれた嘉永の時代の改正前原戸籍からさかのぼって今、家系図を作成している。

    戸籍をていねいに見ていくと当時の結婚とか、家庭構成、それによって浮き彫りになる竹富島のいびつな社会が見えてくる。
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        *画像は、お友達のお宅で本文とは関係はありません。
    人頭税時代である歴史的にいえば江戸時代の頃の八重山。人頭税がすべての基準になっていたそうだ。
    祖父が生まれたのは、人頭税をはじめとした島の役人ということゆえに石垣島から竹富島へ来た曾祖父。身の回りの世話をするという名目での賄い女となった曾祖母の関係があったからだ。

    で、竹富島の家の状況からみて、大所帯となると家の大きさのキャパからはみ出るので長男以外は、別に所帯を構えることになる。婿養子のくちがあれば婿養子になる。でも婿養子でもなく、所帯を構える場合は、屋号が別の家になる。

    実は、私の母方の祖母の実家は、女系だったため、ひとつの家に窮屈により固まって暮らしていたようだ。
    祖母の娘時代は、家に祖母の両親とおばあ様、叔母さん、従兄弟。それで長女である祖母は、早くに島を出て石垣島の医者の家に女中奉公として入った。嫁入りの話があって、昭和6年に東京へ出て来た。妹は、一時期東京へ姉を頼って出てきて仕事をしていたが、縁談で石垣島へ戻った。その頃、竹富島の祖母の実家では、おばあ様が亡くなり、従兄弟が結婚で家を出て、長男である祖母の幼少から身体が弱かった父親が亡くなる。祖母の母親は、私の母が生まれる頃、戦争が始まる前年に上京し2月の東京の寒さに耐えられず亡くなった。こうして祖母の家は下降線をたどる。が、沖縄は、家を継がさせるために継子をつけてとりあえず家督相続のかたちをとって家をつなげる。祖母の家は、祖母の叔父さんの息子に継いでもらうことになった。そこで名前も祖母の実家の名を名乗って奥さん、お子さんと暮らしていたが、42歳の頃脳卒中で急死した。それで奥さんは、家督相続はできないと返すということになって昭和40年代から以後そのままとなった。

    竹富島の空き家屋、空き屋敷はたいがいが、そんな感じなのだ。
    学業や文化的な暮らしを求めたりして離れていく家もあるが。

    私が、今さら竹富島へIターンしようというのは、そういうわけでほったらかしにされた先祖の地の供養のためなのだ。
    東京生まれ、育ちの私にとって辺境の地での暮らしは耐えられるか?
    でも、今なら竹富在住の親類も友達もまだ元気でいるし、種どり祭等で知人縁者が来てくれて会えるからなんとかなるんじゃないか?ということなのだ。

    2014/06/29

    東京竹富郷友会総会


    先月の5月25日。
    私は、二十年ぶりに行った。

    國學院大學たまプラーザキャンパス内にて第89回東京竹富郷友会が開かれた。
    大正14年、竹富島から上京した崎山用枝初代会長で嘉利勇士会として銀座(京橋)の蕎麦屋の二階で創立総会を開く。
    沖縄復帰後くらいまでは沖縄バッシングが強かった。沖縄八重山、竹富島から勉学のため、仕事を求めそして何よりも長男以外は家を分家していくため次男以降のほとんどは、石垣島や沖縄本島、九州、関西そして東京へと散っていくのであった。
    沖縄は昔、特異の存在とされていたらしい。

    今回の新会長のお父様が以前会長をしていたときに正式に「東京竹富郷友会」となった。
    竹富島は、その大昔、西塘(にしとう)様が八重山から初めて首里城に上がって職務を果たしたことから西塘様を称えている。
    西塘の名を用いて会の名称としたりと会の名も幾度も替わっている。
    竹富郷友会は四国にもあるらしい。それは戦争中、竹富島に在留した方々との固い絆で交流が続いていた。
    今回、会長となった瀬戸克氏のお父様は竹富島の蒐集館を開いた上勢頭(うえせど)亨氏の弟で以前会長職を務めていた。
    以前は、竹富島から上京した純然たる竹富人にて郷友会は行われていた。その各々家庭を築いてその子供たち二世。さらに三世。私は三世。