2014/12/12

安里やユンタの子孫

祖母の屋敷(祖母の生家)を見るために歩いていると草を刈っている人に呼び止められた
この人は安里やユンタのクヤマの子孫らしく、若い時、戦争中は士官学校から広島江田島にいて潜水艦の方の特攻隊だった。終戦で捕虜から日本に戻ったとのこと。

ここが、琉球王府からクヤマに与えられた畑。けっこうな広さだった。

長い間、東京で政府関係の仕事をしていて終えたのち、竹富島に戻て草が生えて道なき道となっていたところをこのような道を作ったそうだ。

竹富島は、一家の長男はそのまま居て嫁を迎える。でも次男以降は、家を出て分家して家を建てる。

長男が継いだ本家。本家から出て、本家の前に家を建てると前〇〇という姓をつくったり、屋号にしたりする。
本家の前なら前〇〇。
本家の後なら後〇〇(後ろは、「シー」)
西側なら入〇〇か、西〇〇(日が西に沈むから西を入りとか、イルとかイと読んだりする)
東側なら東〇〇(日が上がってくるので東は、アイとか読んだりする)

この子孫の方は、ていどん(竹富島の人という意)が戻てきて分家したときのために地ならしや土台つくりなどの土地の整備をしているそうだ。


竹富島で感じるのは、みんなが島を愛していて、そして互いを思いやっている姿勢を崩さないことだ。

ミシャシ

美崎と書いて島の人は、ミシャシと言っている。
この奥は、旅に出る人や戦争に行く前にお拝んでもらう御嶽。
昔、私はここで拝んでもらっただはず。
 昔、大正時代の頃は、ここに桟橋があったそうだ。
今現在使っている港よりもいくらか石垣港へ近そうな気もしないでもない。
 行った日は、満月の翌日の一時頃で潮が引いていて岩が見えていた。
ぽつんと上を向いているような小さな岩石は人の想いが岩になってしまったという。
八重山は、石化伝説が多い。

とにかく、沖縄はとくに八重山、竹富なんてなんもなくて、ただ海しかない!ようなところなわけで・・・。
だから明治時代になって人頭税が解けて島間移動が自由になったり学校教育がはじまり、石垣へ台湾へ沖縄本島や本土へ行くようになっていたんだろう。

2014/12/10

まちゃばーさん

私の先祖のことで以前、祖母の土地に住んでいたまちゃばーちゃんに話を聞いた。

まちゃばーちゃんは、現在は「ゆがふ館」で案内スタッフとして活躍しているそうだ。なんと90歳!女性の時代、キャリアウーマンを地でいっている2014年的な女性だ。
今現在は、築100年という文化財となっている與那国(マイユヌンニヤ)のトーラに住んでいる。
與那国邸は、昔の従来の竹富島の家屋のスタイル。
私の父の沖縄の家の間取りもここに似ていた。

向うの小さいおうちが、まちゃばーさんが住むトーラ(台所)の建物。
そこに小さく一人で暮らしている。


輿那国家は立派な家だそうだ。みな学があり、この家から竹富島の町長も出た。

まちゃばーちゃんは、私の祖母の従弟の奥さん。
私の曾祖父の事を聞いた。
曾祖父は、ナーのマイキュリャー。太鼓がうまかったそうだ。







竹富島の衆議院選挙の場合



今回、竹富島に行き、親戚数人に会った。
島全島に放送が入る。
親戚と話していると度々選挙のお知らせ放送が入った。
今回2014.12.14日の衆議院選挙、八重山の離島投票日は13日。
離島は、前日の13日なのだ!
えー!なんか不公平な感じがした。
画像は、八重山日報の記事内の広告。

離島は、国政選挙の実感は薄かった。
石垣島でも選挙の温度低かった。

2014/10/28

メレーターが多いわけ.



近親婚とメレーター(婚外女)が多い竹富島。
それは、けっして大昔からというわけではなさそうです。
親戚の伯父さん、伯母さんたちや竹富島にて育った方に聞いたり、昔の記録等から意外な事実が浮かび上がってきました。

通い婚
親同士が決めた男女。男が女の家に通い、その家の畑仕事を一緒にやったり、食事をとったり二人目の子が生まれるころまでそういう半同棲ようなカタチで暮らし、二人目が生まれる頃に新たに家を構えるというスタイルだった。
教育制度
明治の中期ごろに竹富島でも始まった学校教育制度によって、さらに学ぶ者は、石垣島の学校、もしくは台湾へ。
学業に進む者のほとんどは男。
国民皆徴兵制
それまでは、畑、漁の暮らしから兵役に就くよう徴兵検査で通った男は、配属された地へ赴く。
人頭税廃止により賄い女のくちは終わる
人頭税等で島に留任するウシュマイ(役人)の賄いをするための賄い女(自動的にめかけ)制もなくなる

男女不均衡な人口形態
当時の竹富島の女性の生涯は、子育てと畑作業と機織り。ところが島から男の流出が相次ぐ。
上記のような人口動態で男女の絶対数があわなくなってくる。
ところが基本は、通い婚なわけで、どうしたって女が余る。
ということで婚外関係によっての女性と子供が多くなったのだろう。

そういことで私の曽々祖母たちはそういう立場になって子供を宿し養育していくことにいたったのではないだろうか。




ハジチ


女性は、結婚すると手の甲にハジチという刺青を入れていたそうだ。
昭和15年の冬、四番目の孫の出産のために竹富島から上京した母の曾祖母。
外で食事をするときに手に入ったハジチが恥ずかしく隠していたとのこと。
*上記の写真の曾祖母のエピソードではありません。

この写真は、父の方のばあさんだと思われます。
(父のところからでてきたから)

明治時代中期あたりまで行われていたそうです。

明治時代に入って竹富島の生活スタイルががらっと変わったようですそれは・・・。



2014/10/24

通い婚

大正時代あたりまで竹富島の結婚は「通い婚」だった。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
竹富島のこの通い婚という習慣によって結婚が成立できなかったことが多々あったようだ。

戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。

沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。

竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。