2014/10/28
2014/10/24
通い婚
大正時代あたりまで竹富島の結婚は「通い婚」だった。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。
沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。
竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。
竹富島で島のために村会議員、西部落会長、老人クラブ等々と活躍した
前野長用をご存じだろうか。
明治25年、前新家に生まれた次男加那は、成人を迎えてから先祖の流れである家を継ぐことになる。
結婚する女性と継ぐ家として前野家を作ることになる。
ここから前新加那は前野長用と名乗る。
祖父の兄という関係で親族の一部のみに配布された冊子が送られてきた。
文中わからないことだらけなので竹富島出身の重鎮らに教えてもらった。
前野長用さんが生まれ育ち成人した頃の大正時代の竹富島・・・
結婚する対象女性の家に二人目の子供が出来るくらいまでは通い、
女性の家の用事を行ったり食事をしたりと仮生活のようなことがあったという。
前野長用さんはこういった習慣に則った結婚生活をスタートさせた。
竹富島のこの通い婚という習慣によって結婚が成立できなかったことが多々あったようだ。
戦後になって長らく連れ添った奥様が乳癌で亡くなった。その後再婚したりと紆余曲折を経た人生。
沖縄では97歳をマンダラーという。
カジマヤーとは、風車という意味あいで、歳をとって97歳くらいになると子供に戻るという意味で。
竹富島ではマンダラーという。マンダラーとは竹富での風車という意味。
長用さんは、当時竹富島ではなかなかマンダラーを迎えることはできなかった。戦争なとで亡くなる人、上京したりと男性の方が女性に比べると短命だったのでなかなかマンダラーを迎えられる人や100歳超え出来る人はいなかった。
竹富島の高齢者の公民館の裏手に百歳超えた人の碑を建てている。
これは今年(2014)二月に撮ったもの。
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通い婚
島の歴史に精通していた阿佐伊氏の死
9/28日曜日、自由が丘の沖縄料理店、在京の竹富島出身者愛好者の親睦定例会に出席した。ゲスト参加したてぃーどん3世で近く結婚式を挙げる若いカップルにみんなで祝杯をあげた。
そして長く東京竹富郷友会で活動をしていた阿佐伊孫良氏の訃報が伝えられた。
阿佐伊孫良氏は、竹富島、西集落の屋号アサイヤの三男。
明治時代以前の人頭税時代に島に駐留した与儀与人(よぎよんちゅ)の子孫。
東京竹富郷友会の大功労者だった。
学生時代に上京し東京に居ながらもつねに竹富を想い活動していた。
昭和50年頃の阿佐伊孫良氏。八重山に関する雑誌等で若いころから執筆をしていた。
私が祖父のことや曾祖父について尋ねると「この本を読むといいさー」とすすめられた。
この本は、阿佐伊氏が竹富島の近代昔の農具をはじめとした生活品などを蒐集した上勢頭(うえせど)亨氏が保存していた公文書などを現代文に書いたもの。
今年(2014)、2月に竹富島の阿佐伊氏を訪ねたときは元気だった。それが私が見た最後の姿となった。このときすでにガンの病にあった。
他のてぃーどんの人と断然違うのは竹富について絶対にゆずらない人だったこと。
多くの文献に触れ、竹富のあった姿をきちんと伝えるための人生だった。ご冥福をお祈りいたします。
そして長く東京竹富郷友会で活動をしていた阿佐伊孫良氏の訃報が伝えられた。
阿佐伊孫良氏は、竹富島、西集落の屋号アサイヤの三男。
明治時代以前の人頭税時代に島に駐留した与儀与人(よぎよんちゅ)の子孫。
東京竹富郷友会の大功労者だった。
学生時代に上京し東京に居ながらもつねに竹富を想い活動していた。
昭和50年頃の阿佐伊孫良氏。八重山に関する雑誌等で若いころから執筆をしていた。
私が祖父のことや曾祖父について尋ねると「この本を読むといいさー」とすすめられた。
この本は、阿佐伊氏が竹富島の近代昔の農具をはじめとした生活品などを蒐集した上勢頭(うえせど)亨氏が保存していた公文書などを現代文に書いたもの。
今年(2014)、2月に竹富島の阿佐伊氏を訪ねたときは元気だった。それが私が見た最後の姿となった。このときすでにガンの病にあった。
他のてぃーどんの人と断然違うのは竹富について絶対にゆずらない人だったこと。
多くの文献に触れ、竹富のあった姿をきちんと伝えるための人生だった。ご冥福をお祈りいたします。
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てーどんひと
戦後沖縄のアルバムから
父の持ち物を整理して出て来たアルバム。
数少ない少年期の写真、復帰前の閑散とした沖縄の風景が写っていた。
中央に写っているのが南洋相互銀行に一時期勤めていた祖父。
父が沖縄のバス会社「銀バス」に勤めていたころ。
父が就職した昭和29~32年当時は、アメリカの払下げのスクールバスを直して、市内運行用バスに使っていた。
父たちは、戦争中は竹富島で過ごし終戦で多くの人が帰ってきた。
大正時代に南洋に移り住んだ人々から台湾に移り住んだ人々、満州から戻った人々で小さな竹富島は人が飽和。
竹富島は、農業に適さない地質なので皆に供給できるほど畑がないので、隣の西表島に開墾で渡っていく人が多かった。
西表島に多くの人が渡ったが、そこも農業には向かないので多くの人が去って行った。
父の一家は、家庭不和もあって一時期石垣島に渡ったがじきに与那国へ渡った。
たぶん、石垣港から与那国島行きの船に乗り込む前に取った一枚だと思われる。
祖母は、赤ん坊をおぶっていた。
みな、けっこうモダンな恰好していた。
当時の与那国島は、密貿易が盛んだったそうだ。
父の一家のように畑仕事で食べて行こうとする素朴な思考の人と儲けのために渡っていく人も少なくなかったそうだ。
数少ない少年期の写真、復帰前の閑散とした沖縄の風景が写っていた。
中央に写っているのが南洋相互銀行に一時期勤めていた祖父。
父が沖縄のバス会社「銀バス」に勤めていたころ。
父が就職した昭和29~32年当時は、アメリカの払下げのスクールバスを直して、市内運行用バスに使っていた。
父たちは、戦争中は竹富島で過ごし終戦で多くの人が帰ってきた。
大正時代に南洋に移り住んだ人々から台湾に移り住んだ人々、満州から戻った人々で小さな竹富島は人が飽和。
竹富島は、農業に適さない地質なので皆に供給できるほど畑がないので、隣の西表島に開墾で渡っていく人が多かった。
西表島に多くの人が渡ったが、そこも農業には向かないので多くの人が去って行った。
父の一家は、家庭不和もあって一時期石垣島に渡ったがじきに与那国へ渡った。
たぶん、石垣港から与那国島行きの船に乗り込む前に取った一枚だと思われる。
祖母は、赤ん坊をおぶっていた。
みな、けっこうモダンな恰好していた。
当時の与那国島は、密貿易が盛んだったそうだ。
父の一家のように畑仕事で食べて行こうとする素朴な思考の人と儲けのために渡っていく人も少なくなかったそうだ。
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戦後
竹富島の土地
過疎にみられている竹富島。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。
島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。
認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。
そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの
実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。
竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。
父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。
竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。
昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?
私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。
それはこのブログで度々書いている、昔は人頭税で自由に島を出たり、島間の移動は制限されていた。
また無理やり移動させられることもあり、かなり理不尽のなか人々は生きるしかなかった。
そんな無念の思いを込め文字の書けない人々が口にしたものが歌になり、口伝で伝えられ踊りになり、三線で音がつけられたそういうものが、民族舞踊というかたちで踊られている。
島を出たり、土地の売買や所有・財産という概念になったのは明治時代の途中で人頭税制度が終わった頃のようだ。
今もそれをひきずっている。
今日、私は明治時代人頭税制度が終わった翌年に生まれ昭和32年に亡くなった祖父名義の土地の確認のため近所の法務局に行って来た。
認知症になった父の持ち物のなかから出て来た書類。平成9年に東京の某ホテルにて竹富の地籍調査があったらしい。沖縄県が行ったようだ。
私は昭和61年、結婚により実家を離れていたのでよく知らなかった。というわけでいちいちが初めて目にするものばかり。
竹富島の親戚に電話してみると、だいぶ前のことだし、みな高齢になっているので忘れていたり、記憶も曖昧だったり、覚えていたとしてもかなり大昔の記憶を話してくれたりと、手元にある資料の問題点などつかめない・・・。
そこで、法務局で登記記録の「事項証明書」を取ってきた。
私の父方の曾祖父、祖父、母方の祖母にまつわる土地が三つある。
*書類の掲載画像はすべて祖父名義のもの
実はこの土地、大爺さんが妾こと私の曾祖母に買ったものだと聞いていた。
ところが取った記録(事項証明書)によると大正時代の後期に祖父の名義になっていた。
私は、悲しかった。
昔は男尊女子。家系図には女の名前は載らない(載せない)
曾祖母は、島のため、家族のため、一族のため力強くはたらいた。でも記録には一切名前は残っていない。
家系図を書いているなかで曾祖母の名前は何度も何度も書いた。でも公的記録や表にでる系図に曾祖母の名が出ることは絶対ない。
曾祖母の存在はどこにも残らないんだなあと思い知らされたとき可哀想でならなかった。
竹富島で最近までお元気で生きていた高齢者のなかにはこういうバックグランドの方もいらっしゃったかもしれない。
竹富島の現在の住所は、竹富町字竹富だが昔はこうだった。
父が何かの本から写したものらしい。
今は番地がふられているが、昔はいちいち何々と細かく地名がついていたらしい。
これの地籍整理等が徐々にされていった。
竹富島を捨て都会に出て行った人のことを高齢の女性たちはこういう言い方をする「旅に出て行った」
何人かのお年寄りに尋ねると度々耳にした「旅に出る」
子供時代に空き屋敷になっていた家をきっと当時の大人たちはどこへ行ったかわからないし、人の行動の自由についてあーだこうだと言わずにただ「旅に出た」という言い方でおさめたんだろう。
昔、大正時代、昭和戦前に島を出るということは二度と帰ってこないかもしれない。
よその島からの移住者で肩身の狭い人たちもいた。
どこから来てもどこかへ行ってもこだわりや文句をつけることはしなかったのか?
私の向き合っている土地は、どれも「旅に出た」人のものなのだ。
どんなに遠くに旅へ出ても土地は持っていけないから、荷物として残されたままというのが竹富島に残っている人たちの感覚なのだろうか。
2014/10/23
竹富町の登記事務は石垣島
竹富島にある先祖の土地についての事務手続きのために動くことにした。
竹富島は昔、竹富島が称えて誇っている西塘様のおはたらきで行政機関である「蔵元」を竹富島に置いていたそうだ。
でも不便だったので数十年ほどで石垣島に移され、以後石垣島にある。
ということで手続き等は、めんどくさくても、竹富島なのに石垣島に行かなければならない。
石垣市登野城にある那覇地方法務局の石垣支局へ電話で問い合わせをした。
竹富町役場は、石垣島の石垣市美崎町。
美崎町は、石垣港のすぐそばにある。
美崎町が飲食街として栄えたのは、昔は八重山の島々から船がひっきりなしに入り、人々の往来が多く港町して栄たそうだ。
というわけで、竹富島の事務のために石垣島に行かなくてはならない。
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家継ぎ
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