2014/07/07

マラリア

父方の祖母は、戦争中、マラリアにかかり苦しんだ。
まず、高熱のため冷やし続けなくてはならない。つねに冷やすために水を流す工夫をした。見事に死の淵から戻った祖母。
このマラリアは、どのような経緯を経て八重山にやってきたのだだろう。
どうやら、犬が持てきたらしい。

その昔、外国船が西表島に乗り上げたので、船を直して丁重にもてなしたとか。そのお礼として、犬を置いていったという。その犬にマラリアの菌がついていたのだか不明だが、この犬の出現後にマラリアが流行することになった。

戦争中、強制疎開で西表に移動することになった学童。
戦争で父の4年生時の担任の若い女性の先生が亡くなった。
私は、昭和20年の5~6月頃に西表に空爆があったか調べたが、わからなかった。父に聞いた。「あー、それはね、マラリアで亡くなったんだよ」ということで、敵国の爆撃とかではなくてマラリアで亡くなったという。こういうことで、戦争中、空爆とか銃撃とかではなく、マラリアで亡くなった方がほとんどだったそうだ。
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2014/07/06

竹富島移住計画

今年二月に竹富島,石垣島へ行ったときに親戚に「こっちで暮らせば」と言われた。「えっ?」とびっくりしたが、どうやらその方がよさそうなのだ。
今、現在、父の荷物を整理しているが、未解決な書類や一族についての謎が次々と明るみになってきている。

まず、曾祖父が明治38年あたりにすでに終わった人頭税の役人職から一般人になって竹富島に寄留民として入った。その記録が、竹富日記にあった。
ここまでは、誰もが知ることができる公の記録だ。

曾祖父がこのとき購入した鰹節をつくるための鰹漁、工場のための土地が事務上放置されていた。

その土地は、遺跡発掘等で沖縄県が長年管理していたが、平成8年あたりに管理が市町村に移ったため竹富町役場から連絡があった。
その電話を受けた父が曾祖父名の土地の相続のために一時期動いていたらしい。
ところが、複雑な家族構成のため相続に必要な書類集め、印鑑をもらうためには大変だったらしく結局途中で放り投げた。
結局、今になって私がその書類を見つけ、相続できる私たち以外の石垣島に在住している親類にこのことを持ちかけた。
ひとつはこれで片付きそうだ!が、母方の祖母の実家が、相続されていなくてそのままになっているので、こっちの相続の行方にかかわることになった。

曾々祖母の生まれた嘉永の時代の改正前原戸籍からさかのぼって今、家系図を作成している。

戸籍をていねいに見ていくと当時の結婚とか、家庭構成、それによって浮き彫りになる竹富島のいびつな社会が見えてくる。
石垣島の格安レンタカー

    *画像は、お友達のお宅で本文とは関係はありません。
人頭税時代である歴史的にいえば江戸時代の頃の八重山。人頭税がすべての基準になっていたそうだ。
祖父が生まれたのは、人頭税をはじめとした島の役人ということゆえに石垣島から竹富島へ来た曾祖父。身の回りの世話をするという名目での賄い女となった曾祖母の関係があったからだ。

で、竹富島の家の状況からみて、大所帯となると家の大きさのキャパからはみ出るので長男以外は、別に所帯を構えることになる。婿養子のくちがあれば婿養子になる。でも婿養子でもなく、所帯を構える場合は、屋号が別の家になる。

実は、私の母方の祖母の実家は、女系だったため、ひとつの家に窮屈により固まって暮らしていたようだ。
祖母の娘時代は、家に祖母の両親とおばあ様、叔母さん、従兄弟。それで長女である祖母は、早くに島を出て石垣島の医者の家に女中奉公として入った。嫁入りの話があって、昭和6年に東京へ出て来た。妹は、一時期東京へ姉を頼って出てきて仕事をしていたが、縁談で石垣島へ戻った。その頃、竹富島の祖母の実家では、おばあ様が亡くなり、従兄弟が結婚で家を出て、長男である祖母の幼少から身体が弱かった父親が亡くなる。祖母の母親は、私の母が生まれる頃、戦争が始まる前年に上京し2月の東京の寒さに耐えられず亡くなった。こうして祖母の家は下降線をたどる。が、沖縄は、家を継がさせるために継子をつけてとりあえず家督相続のかたちをとって家をつなげる。祖母の家は、祖母の叔父さんの息子に継いでもらうことになった。そこで名前も祖母の実家の名を名乗って奥さん、お子さんと暮らしていたが、42歳の頃脳卒中で急死した。それで奥さんは、家督相続はできないと返すということになって昭和40年代から以後そのままとなった。

竹富島の空き家屋、空き屋敷はたいがいが、そんな感じなのだ。
学業や文化的な暮らしを求めたりして離れていく家もあるが。

私が、今さら竹富島へIターンしようというのは、そういうわけでほったらかしにされた先祖の地の供養のためなのだ。
東京生まれ、育ちの私にとって辺境の地での暮らしは耐えられるか?
でも、今なら竹富在住の親類も友達もまだ元気でいるし、種どり祭等で知人縁者が来てくれて会えるからなんとかなるんじゃないか?ということなのだ。

2014/06/29

東京竹富郷友会総会


先月の5月25日。
私は、二十年ぶりに行った。

國學院大學たまプラーザキャンパス内にて第89回東京竹富郷友会が開かれた。
大正14年、竹富島から上京した崎山用枝初代会長で嘉利勇士会として銀座(京橋)の蕎麦屋の二階で創立総会を開く。
沖縄復帰後くらいまでは沖縄バッシングが強かった。沖縄八重山、竹富島から勉学のため、仕事を求めそして何よりも長男以外は家を分家していくため次男以降のほとんどは、石垣島や沖縄本島、九州、関西そして東京へと散っていくのであった。
沖縄は昔、特異の存在とされていたらしい。

今回の新会長のお父様が以前会長をしていたときに正式に「東京竹富郷友会」となった。
竹富島は、その大昔、西塘(にしとう)様が八重山から初めて首里城に上がって職務を果たしたことから西塘様を称えている。
西塘の名を用いて会の名称としたりと会の名も幾度も替わっている。
竹富郷友会は四国にもあるらしい。それは戦争中、竹富島に在留した方々との固い絆で交流が続いていた。
今回、会長となった瀬戸克氏のお父様は竹富島の蒐集館を開いた上勢頭(うえせど)亨氏の弟で以前会長職を務めていた。
以前は、竹富島から上京した純然たる竹富人にて郷友会は行われていた。その各々家庭を築いてその子供たち二世。さらに三世。私は三世。

2014/04/08

安里屋ユンタ

有名な安里屋ユンタの歌は嫌いです。それは・・・

安里屋ユンタの歌は、その昔寛政11年に亡くなったクヤマという美女の話だそうだ。
当時の役人の身の回りの世話をする「賄い女」に選ばれたが・・・妾になるという好条件を断った。それをたたえるような言い伝えになっているが、私の手元の資料ではそういうふうには書いてはいない。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき兵を差し出せ。
というのを島津経由に兵は戦さに馴れていないので兵糧米を出せとなる。
が、琉球は工面ができなかったので島津に借りる形で納めた。
島津は、貸しがあるのに琉球は島津の言いなりにはならない。
こういうところが日本風の義理をたてるという考え方と、沖縄感覚のずれがあったのかもしれない。
島津に納める貢物のためにそれから宮古と八重山は人頭税という税制度になっていく。
琉球からの役人による税の監視役を島々に派遣していく。島々でも管理体制が出来上がっていく。
人頭税は、頭数で決めていくのだが、そのうち人口の増減に関係なく定額人頭税になる。
これによって八重山という島々の社会はぎくしゃくしていく。
私たち子孫は、教科書や正式な記述に漏れた者たちなのです。
「安里屋ユンタ」のクヤマはものすごい美人。
琉球から命ぜられた新任の役人が石垣島から派遣させられてくる。その身の回りのお世話をする賄い女になれと命ざれる。
賄い女の条件は、若い美女。身の回りのお世話というが、妾になるということだ。
賄い女になると、本人と家族が賄い女となる三年間くらいは人頭税が免除か軽くなる。というわけで家族から賄い女が選ばれると家族はラクになるから喜ぶ・・・。島に派遣される役人は、だいたい三年間くらい、妻子は置いてこなくてはならない。
そこで身の回りの世話をする者を島の方で用意する。本来は、50歳以上の男女か、15歳くらいまでの男子だったらしいが、それがだんだん役人の妾になる要素の若い美女になっていったらしい。で、安里屋ユンタの歌は、そういう妾の口を断ったことが美談として歌われているが、竹富島の多くは、クヤマのように妾に選任された人の子孫なのだ。だから私はこの歌を受け入れられない。

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2014/04/05

水の神様

 
水の神様と呼ばれた百歳で亡くなった方が作った鳥居。
桟橋やセメントなどを使って建造する職人の人がいた。
竹富島では、百歳以上まで生きる人が多い。
それぞれの方の功績は、もちろん記録にもなっているが、ほとんどが記憶の言い伝えでそのうち消えてしまい何だかわからなくなってしまう。記録が乏しいかもしれない。
だから一族の経緯がわからなくなってしまいどうにもならない部分がある。
今、私たちは何だかわからなくなってしまった何かを調べ辿っている。

2014/04/04

赤馬節

 
沖縄の踊りというと「琉球舞踊」
八重山には八重山民族舞踊がある。
赤馬節は、琉球舞踊でいう座開きの御前風(ぐじんふう)の「かぎやで風」みたいな踊りなので、
必ず、発表舞台の初めに組み込まれている。
曲風、調子はおなじくらい。
これは、利口な馬にまつわる逸話を歌ってる。
 
 有名な音楽の地でそれも天気のいい日なのに観光客がひとりもいなかった。石垣島の「馬見岩」という見晴らしのいいところにある赤馬節にまつわる地。
馬がひとり淋しそう。
八重山の民謡は、さびしさを含んでいるものが多い。
賢い馬が飼い主から離されて再び出会って喜ぶというような歌。
琉球舞踊もちょっと習ったことのある私は、歌とか、踊りの振り付けとか比較してしまう。
沖縄本島と八重山がこれだけちがうんだけど・・・竹富の舞踊もハザマと仲筋で琉球舞踊と八重山の違いくらいの違いというか解釈とかスタイルが違うらしい。

私は、先祖が西と東なのでみんな仲筋については詳しくない。あまりいいように言わない。私たち戦後世代は、もうそんなことはあってもないように言っている。なぜ、昔の人は、こだわるか?
それも最近のじいさんたちまでも。それは戦前まで、畑を耕すことを競いあっていたらしい。徹夜しても畑を耕す。何かと競わせていいたらしい。仲良くするという前に負けないという意気込みが身に付いたのか。人は、そのとき、そのときの時流に合わせて人格形成されていく・・・。というか、習慣がつくるというか。
赤馬節も聞いているとなんだーというようなストーリーなんだけども当時の人にとっての感動はすごかったんだろう。

空港に行く道沿いにあるのでこれを読んだ方で石垣島へ行く方は寄ってみてはいかが?石垣島、八重山の人で赤馬節知らない人はいない。

 

2014/04/03

嘉善姓

 
 嘉善姓の墓というところへ行った記録。この墓は、石垣永将が外国の難破船を助けてキリスト教になった最初の人で見せしめとして殺されたということらしい。
私、実は足が悪いので丘の上にある碑まで車で登ってもらった。この画像の隣の奥に墓というか区切られている場所がある。数年前まで荒れていたそうだ。
私たちの代で気づいた人、わかっている人たちが守り伝えなくてはいけない。
こちらは、桟橋にぐっと近い、街中にある石垣永将が処刑にあった地。今はここの左手前の家の人が掃除したり守ってくれているそうだ。
 
嘉善姓について書くのは、手が震える~。
ばれるから・・・。
八重山の昔の役人。八重山は三氏(さんうじ)いたらしい。
*嘉善(かぜん)氏・・・名前の最初「永」の字・・・永将とか、永・・・
*梅公(ばいこう)氏・・・「孫」・・・この字が名前についている人はその一族だとすぐわかる
*錦芳(きんぽう)氏・・・「用」・・・この字が名前についている。
 
ところが、この血筋であっても苗字が違い、さらには、この共通の文字が名前にない。もしくは、女に生まれると、血筋のしるしとなる手がかりが何もないのだ。
私たち、竹富島の子孫は、今これを追っている。というか追っているのは私。
この間、梅公氏の血筋の方から情報をいただいた。私の手元にあるのは錦芳氏の系譜の写しというか、大掛かりなコピー。
 
さらには、そのコピーに漏れているうちらのじーちゃんの名の書き込みがされている。
これは、フチャーヤー(黒島家)の詳細な家系図を書いた人みたいに手がかりを生前集めていたおじさんの残したもの。ふたりともたまたま司法書士をしていた。
 
三氏というのもうら覚えなので、ちょっとちがうかもしれない。
錦芳氏と梅公氏は明確。というのは、八重山にいた役人でも位がいろいろあるらしい。
とにかく、おやけ赤蜂までさかのぼるので。それも島々での記録保存がまちまちだし、八重山の記録の廃棄、処分のことについてもいろいろ書かれていた資料もあるので・・・。