2015/11/30

戦争中の竹富島

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戦争が始まることになったので南洋から竹富島に移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の人が石垣島、沖縄本島、九州、東京、満州、台湾へ移住したり、徴兵で出て行ったりして空き家が多かったので空き家に移り住んでいた。
ところが子供たちが大きくなるし、水汲みやらなんだかんだで手狭になってまた家を動くことに。そこへ、戦争も押し詰まった頃に。島を守る隊が本土から配属されてやって来た。当時、父たちが住んでいた空き家は広かったのでそこを隊の拠点とするというのでそこをまた出ることになる。
そうやって転々とし、西表島に学童疎開し、そこで大勢の人、当時の学校の若い女性教員もマラリアで亡くなった。
竹富島に常駐すことになった隊「大石隊」高知県の人たちで戦後ずっと東京竹富郷友会と交流があった。当時の小学校は、少しずつ場所を変えて授業を行っていたそうだ。空き家で簡易的に授業をしていた。半年に一度くらい、本土からニュースなどがフィルム映画となって学校で生徒たちに上映することがあって、そういうものから本土の情報を得ていたそうだ。そういうときは島の大人たちがのぞきに来ていたそうだ。

2015/11/27

東地区(あいのた)は本物

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竹富島は、東(あいのた)西(いんのた)仲筋(なーじ)の三地区に分かれている。私の住まうとしているのは東地区。父の両親と母方の祖母の実家がある。
東地区の種子取祭の衣装は、全部本物の芭蕉で織ったもので揃えている。
今は、芭蕉の本物でつくることはないので一枚が十数万円~数十万円になるという。庭の芸能で女性たちが踊る「真栄(まざかい)」の踊りは、東地区が担当しているという。人数がマックス18人なので、がんばって18人からもれないように踊った人から話を聞いた。なんで18人限定?それが東地区の持っている芭蕉の衣装が18枚だからだそうだ。
西地区や仲筋地区は、本物の芭蕉にこだわって揃えてないらしいが、東地区はこだわったているそうだ。

2015/11/26

種子取祭




最近、こちらこちらのブログで書いてます。

弥勒面のひみつ

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竹富島の守り神。竹富島はなんでもありで、あんなに小さな島なのに神、多過ぎ!種子取祭で世曳き(ゆーひき)で登場する弥勒面を被った大山家の御主前(うしゅまい)。

言い伝え(教科書本:民俗学者たちの記述・研究)では、竹富島の豪農の大山家の御主前(うしゅまい)が勢頭座敷という位階が与えられ子や孫たちを引き連れて竹富島の神と与人(よんちゅ)に豊作の報告をするという狂言(きょんぎん)。これだと大山家の御主前を称える竹富島世界観が未来永劫まで続いてしまいそうなのだ。弥勒面について言うと実はこうである・・・弥勒面が浜に流れ着いた。それを拾った中道家の人が朝な夕なに拝んでいたのを与那国与人(よんちゅ:役人、お偉方)が見て、与那国家で守っていくべきだと持って行ってしまう。さらにそれを目にした、当時権力があった大山家の御主前(うしゅまい)が持って行ってしまう。
ところが双方の協議の末、安置保管は大山家で、被るのは与那国家の人ということになったという。
現在は旧役場敷地内に弥勒奉安殿で安置。言い伝えは大山家側に成り立っているが、大山家が無理矢理奪ったのではないかというのが竹富島人の本音。大山家は権力を振りかざし竹富島を制圧していた。あの時代(人頭税時代)、島民は理不尽な税の重圧に絶え苦しんでいたように言われているが、大山家、与那国家のような力のある家々の拮抗に対していつも振り回されていたのではないかと推察する。

そうはいっても神と崇められている存在。神拝み、守りの主権争いで勝ったところで安泰を得られるのだろうか。人々、自然、島を守りここにない誰もが求めるそれはどう跳ね返ってくるのだろうか?今年の種子取祭はめぼしい人の姿が見られなかった。ある人は、弥勒の面のそれが跳ね返ってきたのではないかとつぶやいた・・・

2015/11/25

竹富島の家

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竹富島は、街並み保存指定地区になっているので家は竹富島式の建て方と決まっている。
のような
みたいな建て方じゃないとダメなんです。現在のうちの土地は
で、
みたいな野放図な状態なのです。どうすれば*こちらの土地はうちの土地ではありません
みたいなすてきなおうちが建てられるのでしょうか?まず、草を刈って土地ならしが必要。水を使えるようにする。電気がつくようにする。買い物は石垣島まで買い出しに行くしかない。確か離島は、いや、沖縄の離島は通販で荷物が届かない地域。アマゾンや楽天で買い物しようとしても配送してくれない地域。何をするにも離島までの送料が余計にかかってしまう。でもそれなりの価値があると私は思う。


2015/11/24

大山門中

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家系図・関係図書きがライフワーク。
竹富島は、大山が多い。大山という一人の男から多くの大山子孫が生まれている。大山姓もそこそこいるが、女性が嫁ぎ先の姓になったり、改姓した家も多いのでよほど竹富島の家々に精通した人でないと一見わからない。

私は大山一族ではないので、あまりよくわからない。
私が、手をつけている家系図は、前新家(マエアラヤー、イルマイアラヤー、ヒソーリャ、ソーリャ)仲盛家(ナカウラヤー)、内盛家(ウチウラヤー)、前請盛家(マエキューリャー)、古堅家(ハエモリヤー)、登野城家(トノキャ)富本家(マイアル―リヤ)。
だいたい明治政府以降、親の記述が江戸時代末の生まれくらいの記録や聞きかきでどんどん書き伸ばしている。
まずわかり易い例。
新(アラ)家の長男が新家を引き継ぐから、そのまま新家となる。

次男が新家から分家して、新家の前に家を創建すると「前新」になる。
じゃ、後ろに家を建てると「後新」
新家の東側に建てると「東新」
新家の西側に建てると「西新」といった規則性で姓が作られている。
二つの家で補いながら家を継いでいる。
A家で男の子が絶えるとB家から男の子を出しよそから嫁をもらいA家を継いだカタチにする。そうやって何百年もやってきた。近親婚が多い。
今回書いた大山門中だが、私の場合は錦芳氏、嘉善姓とまたがっており、このあたりのことはおいおい書いていくことにする。

2015/11/23

竹富島親睦会「睦美会」

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沖縄文化のなかに「睦む」というものがあり、竹富島のことばに「賢しくさや睦ぐみど勝りょーる」というのがある。みなが睦んでいくことが賢いというような意味。竹富島文化圏のなかにはいくつかの親睦会がある。私が父の後を引き継ぎ参加しているのが東京・自由が丘を定例会場としている睦美会。

睦美会・・・
昭和40年、東京にて竹富島出身者の60歳以上の有志で「年寄り会」として発足した。その後、竹富島出身者、その子供二世等、竹富島にかかわりのある者が少しづつ加入し(加入条件がゆるくなって)、現在は竹富島のファンで会員全員の了承が加入条件。
今年で睦美会発足50年となる。そこで来年3月に大きなイベントを企画している。私はその記念イベントの記念誌の編集を担当することになった。以前、父がもうひとつの親睦会の記念誌の編集をしたことがる。父の後を継いで活動している流れからすると自然な流れといえる。 問題点が・・・発足当時から構成されていた会員の頃は、竹富島ソウルで原稿の集まりがよく、結束固かったけど・・・生粋の竹富島ッ子は三名のみ、あとは子供のうちに島を出た者、上京した者や二世、三世、竹富島とは一切縁はないが熱烈なファンという会員構成の現状では、打てば響くよな反応は望めない。それで原稿をお願いするのではなくアンケートというかたちにした。それでも集まりは悪い。なかには単なる飲み会として理解しているような人もいる。沖縄で結束する親睦会は、それぞれのポリシーがある。私が子供の頃、沖縄で両親が入っていた親睦会は、母の従兄弟たちで構成されている「従兄弟会」だった。父が加入していた東京でのもうひとつの親睦会は個人事業家中心の会だった。確かに集合して飲むだけのことかもしれないが、会としてくくることにおいて一体感というか家族エネルギーみたいな感覚が生まれ文化として証を残したくなる。それが沖縄文化だと感じている。