2016/06/12
2016/06/11
2016/03/16
睦美会50周年記念祝賀会
こちらの記事は「竹富島学習」よりの転載です。
東京の浅草ビューホテルにて、東京竹富睦美会の50周年祝賀会。
長年会員の表彰。
東京の浅草ビューホテルにて、東京竹富睦美会の50周年祝賀会。
今回、歌を披露してくださった盲目の歌手中村遼さんのご子息が浅草ビューホテルにお勤めということで会場として使わせていただきました。ありがとうございました。
睦美会会員で竹富島出身初の歌手前浜みどりさん「真夏の出来事」を華麗に披露!
みなさんへお配りした案内状
プログラム。
お土産の記念グラス。
明治の中頃まで竹富島の人々は、人頭税のため島間移動は自由にできなかった。
丁度同時期に台湾が日本統治となり、人頭税が解かれ納税方法も物納から現金納税に変わった。そして教育制度がはじまり、追って徴兵制度とこの頃に大きく竹富島社会が変わった。
その当時、石垣島次いで沖縄本島、そして多くの人が台湾へ渡った。
東京へ行った者で後に台湾へ渡り竹富島に戻った崎山用枝が東京竹富郷友会を立ち上げる。続々とていどんが上京。
太平洋戦争が終わり戦後の混乱がおさまった頃東京在住の有志で60歳をメドに年寄り会として睦美会は世田谷区の内盛唯夫宅で始まった。
竹富出身者の軌跡を追ってみると、昭和39年のオリンピックの頃、またひとつ階段を上った。起業したり、沖縄の芸能としてNHKに出演したりと。
睦美会は沖縄系の小さな頼母子講。
沖縄社会ではあたりまえにある模合。
沖縄の関係社会は、日本統治時代の南洋でも広く行われていた。
東京で50年続いている沖縄系の会は、おそらく睦美会が一番長いのではないか。
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睦美会
2015/12/19
ハーヤー
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竹富島は、ある時期からまちなみ保存指定というきまりにおいて本来は昔ながらの建築でしか家屋は建てられない。
でもこの階段を上って
二階建てのコンクリートつくりのそこは・・・
カフェ
竹富島の白砂の地面。おしゃれモダンな店内内装。まちなみ保存のきまりを施行するずっと以前に建てられたのかもしれない。
今年、沖縄本島でいうカジマヤー、竹富島ではマンダラ―の97歳のお祝いをした赤山喜介さんは、赤山だが、赤山家の直系ではない。それは、竹富島独特の家、家系の構成にある。家を継ぐために男の子がいない場合は、婿をとる。だから喜介さんは婿養子に入った。赤山家から私の高祖父は仲盛家に婿養子に入った。たぶん次男か三男だったのだろう。赤山家の直系の男性は、みな背が高くて今で言うイケメン。泡盛のラベルに印刷された喜介さんはとてもハンサムだけれど、赤山家の男前の雰囲気とはちょっとチガウみたいだ。戦前、満州から東京にやって来た赤山家の直系の人。みな背が高かったそうだ。赤山家は、竹富島に辿り着いた平家の一族ということ、いったいどういうことなのか?上勢頭亨さんが書き残した記録や、昔の方々から聞いて集めた情報から、さらには東京の大学の研究者やら、資料から真実をくみ取り、先祖の果たせなかった思いや伝えたいことを解放し供養していきたい。
竹富島は、ある時期からまちなみ保存指定というきまりにおいて本来は昔ながらの建築でしか家屋は建てられない。
でもこの階段を上って
二階建てのコンクリートつくりのそこは・・・
カフェ
今年、沖縄本島でいうカジマヤー、竹富島ではマンダラ―の97歳のお祝いをした赤山喜介さんは、赤山だが、赤山家の直系ではない。それは、竹富島独特の家、家系の構成にある。家を継ぐために男の子がいない場合は、婿をとる。だから喜介さんは婿養子に入った。赤山家から私の高祖父は仲盛家に婿養子に入った。たぶん次男か三男だったのだろう。赤山家の直系の男性は、みな背が高くて今で言うイケメン。泡盛のラベルに印刷された喜介さんはとてもハンサムだけれど、赤山家の男前の雰囲気とはちょっとチガウみたいだ。戦前、満州から東京にやって来た赤山家の直系の人。みな背が高かったそうだ。赤山家は、竹富島に辿り着いた平家の一族ということ、いったいどういうことなのか?上勢頭亨さんが書き残した記録や、昔の方々から聞いて集めた情報から、さらには東京の大学の研究者やら、資料から真実をくみ取り、先祖の果たせなかった思いや伝えたいことを解放し供養していきたい。
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ハーヤー
2015/12/13
八日会と睦美会の発足
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上京した竹富島出身者で作った組織に東京竹富郷友会がある。郷友会の大組織のなかに有志で会が結成された。
上京した竹富島出身者で作った組織に東京竹富郷友会がある。郷友会の大組織のなかに有志で会が結成された。
「八日会(ようかかい)」毎月8日に集まることとしたので八日会と命名した。沖縄では、模合という相互扶助の精神からメンバーを募り毎月例会をし金を積み立てそこから毎月一人がまとまった金額を引き出せるシステム。沖縄ではたいていの人が加入している。※その昔、南洋に沖縄から多くの移住者が渡った。そこでもいくつもの模合があったそうだ。八日会はどちらかというと個人事業主の人が多く、そうとうの積立金があって、そこから引き出したり、余剰金の配当金や旅行、ホールなどの会場を借りてのパーティーなどをやっていた。会は、十数年前に解散。在籍したほとんどの人は亡くなってしまった。存命中の人は施設に入っている高齢者や認知症になってしまった私の父くらい。八日会は、ある野心を抱いた人のおおいなる思いから展開された。それは、私の大伯父で東京竹富郷友会の19代会長を務めた花城永勝(えいしょう)
昭和50年に亡くなった。竹富島で生まれ、当時の尋常小学校を卒業すると台湾に渡り金物屋の丁稚になる。昭和初期に東京に移る。現在の世田谷区太子堂で新婚生活がはじまった。当時、沖縄を中心に日本統治下の南洋群島への移住者を募っていた。南洋群島の郵便局員勤務のための逓信省の試験に受かり南洋に渡った兄の後を永勝も追い南洋に渡った。昭和6年のことだった。そのときに妻子は竹富島に戻っている。単身で行ったのかもしれない。でも戦争前の昭和15年には妻子は東京へ移住していた。前後するが、昭和12年、日中戦争が起こる頃に台湾に渡っている。そして海南島へ日本軍の基地整備の作業員として過ごし、「第二次世界大戦がはじまりそうだ!この戦争がはじまったらたいへんなことになる。日本は負けるかもしれない」という内容の手紙を妻子に送っている。
当時の海南島は、韓国の刑期中の者、中国からかき集められた若者らに整備して基地やら飛行場をつくるなどに躍起だった。永勝の幼い頃から友人で同時に海南島に行っていて、その後八日会の会長になった浅井秀人氏が手記に通信設備の工事を行っていたと書いている。戦後、多くの復員と共に永勝も海南島から台湾経由で戻る。戦後の東京竹富郷友会は、世田谷区の太子堂で集ったという。おそらく永勝の家あたりが活動拠点として集まりやすかったのだろう。そうやって精力的に活動して昭和38年の頃に永勝は東京竹富郷友会の会長に就任すると同時に模合をやろうと提案する。それが八日会発足となるが・・・。竹富島幼少期から仲良しで一緒に海南島時代を過ごし無事帰還した唯一無二の友と仲間割れとなり、自分が発起人として立ち上げた八日会をすぐに脱会してしまう。でも同時並行して睦美会が立ち上げられていてそこの発足メンバーに永勝の名前が掲げられていた。永勝にとって八日会は、友達や外側の人との交流。睦美会は、遠縁の親戚らがいた。こちらのほうが居心地がよかったのしれない・・・。いや、もっと複雑な何かがあったに違いないが、当時の関係者がほとんど亡くなってしまったのでもうわからない。私はこういう背景を知っての睦美会参加となっている。現在の睦美会員で永勝のことをよく知る人はもういない。
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八日会
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