2015/12/10
2015/12/07
たぶん戦後直後の与那国島
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これは父のアルバムにあったもの。詳細は不明。
戦後の与那国島で撮られたものだと推察する。なぜ、与那国島かと思うのか? それは、竹富島で父たちが写真を写すような余裕はなかったから。父は、父の親私からすると祖父が一家を引き連れて与那国島へ渡ったのだ。この写真の場面によく似た写真や情報がつまった本がある。それは、戦前戦中戦後の与那国、沖縄で密貿易をしていた密貿易の女王夏子。この本に書かれている時期に父は与那国島の中学校へ通っていた。そうとう賑わっていたそうだ。電気が通じている時間をみはからって祖母が豆腐を作り、長女が小学校への登校前に久部良まで売りに歩いたという。祖父は、戦争が終わって帰ってきたもののろくに畑をやれないのでいつも飲みに歩いてそうだ。でもこの異常な状態は長くは続かず、あっという間にみな島を離れて行ったそうだ。本に書かれていたドル紙幣、B軍票、A軍票などの通貨の無法地帯は、父は子供だったので手にすることはなかったが、それは沖縄本島の糸満に着いてから通貨によるねじれを味わうことになる。この件についてまた資料を集めていきたいと思う。
これは父のアルバムにあったもの。詳細は不明。
戦後の与那国島で撮られたものだと推察する。なぜ、与那国島かと思うのか? それは、竹富島で父たちが写真を写すような余裕はなかったから。父は、父の親私からすると祖父が一家を引き連れて与那国島へ渡ったのだ。この写真の場面によく似た写真や情報がつまった本がある。それは、戦前戦中戦後の与那国、沖縄で密貿易をしていた密貿易の女王夏子。この本に書かれている時期に父は与那国島の中学校へ通っていた。そうとう賑わっていたそうだ。電気が通じている時間をみはからって祖母が豆腐を作り、長女が小学校への登校前に久部良まで売りに歩いたという。祖父は、戦争が終わって帰ってきたもののろくに畑をやれないのでいつも飲みに歩いてそうだ。でもこの異常な状態は長くは続かず、あっという間にみな島を離れて行ったそうだ。本に書かれていたドル紙幣、B軍票、A軍票などの通貨の無法地帯は、父は子供だったので手にすることはなかったが、それは沖縄本島の糸満に着いてから通貨によるねじれを味わうことになる。この件についてまた資料を集めていきたいと思う。
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与那国島
2015/12/03
竹富島長寿「富本達子」さん
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長寿県の沖縄。竹富島も長寿の島。
竹富島の高齢者センター。
裏は、百歳超えをした高齢者の記念碑と記念樹がたくさん植わっている。
富本達子さんの百歳の碑
富本家のことを書いた一族史。
上勢頭家に(童名:カンツ)生まれ、前豊見本(まえとみもと)家に嫁ぎ富本達子として生涯を過ごす。
![]() |
画像は、JTAより
このおばあが、東京にしばらく居たことがあって私はお会いしたことがある。とても小柄なかわいらしい人だった
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カジマヤーの祝いのときの記念に配られた。富本家は、珍しいことから発展した家である。富本達子さんは、人頭税がまだ施行されていた明治31年に生まれ平成10年(1989)に亡くなった。達子さんの生きた竹富島の時期が一番変化に富んだ時期だった。学校教育がはじまったり、人頭税が終わったので納税のスタイルが大幅に変わった。大正時代まではまだ通い婚だった。多くの人が台湾に渡り。南洋へ渡って行き。戦争に多くの人が出ていった。戦後、南洋・台湾・戦地・満州と続々と戻ってきた。そのときの竹富島はたいへんな人口密度が濃くなった。田畑から採れる作物と人口問題で、すぐに多くの人が島をあとにしていくことになる。
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長寿
2015/12/02
サングルロ
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種子取祭で踊られる謎めいた踊り「サングルロ」
父の友達で仲筋村の人が書いた仲筋の芸能にも書かれている。人頭税は15歳からだったので当時は年齢をごまかしたかった。当時の服装は下着をつけなけい。子供ぽく身体の成長がおそければ15歳に達していないとして押し通したかった。サングルロの踊りのなかでゴロゴロと転がりながら舞台からはけるときに着物のなかがチラ見できるときに身体の成長度合いが図れる・・・ということから15歳未満の判断材料になる。
種子取祭で踊られる謎めいた踊り「サングルロ」
父の友達で仲筋村の人が書いた仲筋の芸能にも書かれている。人頭税は15歳からだったので当時は年齢をごまかしたかった。当時の服装は下着をつけなけい。子供ぽく身体の成長がおそければ15歳に達していないとして押し通したかった。サングルロの踊りのなかでゴロゴロと転がりながら舞台からはけるときに着物のなかがチラ見できるときに身体の成長度合いが図れる・・・ということから15歳未満の判断材料になる。
この不気味な風貌は「とうもろこし」を表しているらしい。沖縄は、台風が多いのと干ばつ等で気候が安定しない。暑さ・湿気で食物保存ができにくいのでいつも食糧難状態。なので神に恵みを乞う儀式や祭りが多い。
竹富島は、六つの御嶽で拝む女性の神司(カミツカサ:通称ツカサ)がいる。昔、仲筋村の唐マイチという司が、当時は、船旅の安全のために神司が乗り合わせた。そのころに船旅中で中国に留まる出来事があった。その滞在中に見つけたよく育つトウモロコシの苗を陰部に隠して持ってきた。そういういきさつからトウモロコシは神様へのお供えにはしていない。踊りの意味はよくわからないが600年続く種子取祭で守り披露され続けられるのには意味やしかけがあるのかもしれない。
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種子取祭
2015/12/01
2015/11/30
戦争中の竹富島
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戦争が始まることになったので南洋から竹富島に移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の人が石垣島、沖縄本島、九州、東京、満州、台湾へ移住したり、徴兵で出て行ったりして空き家が多かったので空き家に移り住んでいた。
戦争が始まることになったので南洋から竹富島に移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の人が石垣島、沖縄本島、九州、東京、満州、台湾へ移住したり、徴兵で出て行ったりして空き家が多かったので空き家に移り住んでいた。
ところが子供たちが大きくなるし、水汲みやらなんだかんだで手狭になってまた家を動くことに。そこへ、戦争も押し詰まった頃に。島を守る隊が本土から配属されてやって来た。当時、父たちが住んでいた空き家は広かったのでそこを隊の拠点とするというのでそこをまた出ることになる。
そうやって転々とし、西表島に学童疎開し、そこで大勢の人、当時の学校の若い女性教員もマラリアで亡くなった。
竹富島に常駐すことになった隊「大石隊」高知県の人たちで戦後ずっと東京竹富郷友会と交流があった。当時の小学校は、少しずつ場所を変えて授業を行っていたそうだ。空き家で簡易的に授業をしていた。半年に一度くらい、本土からニュースなどがフィルム映画となって学校で生徒たちに上映することがあって、そういうものから本土の情報を得ていたそうだ。そういうときは島の大人たちがのぞきに来ていたそうだ。
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戦争中
2015/11/27
東地区(あいのた)は本物
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竹富島は、東(あいのた)西(いんのた)仲筋(なーじ)の三地区に分かれている。私の住まうとしているのは東地区。父の両親と母方の祖母の実家がある。
竹富島は、東(あいのた)西(いんのた)仲筋(なーじ)の三地区に分かれている。私の住まうとしているのは東地区。父の両親と母方の祖母の実家がある。
東地区の種子取祭の衣装は、全部本物の芭蕉で織ったもので揃えている。
今は、芭蕉の本物でつくることはないので一枚が十数万円~数十万円になるという。庭の芸能で女性たちが踊る「真栄(まざかい)」の踊りは、東地区が担当しているという。人数がマックス18人なので、がんばって18人からもれないように踊った人から話を聞いた。なんで18人限定?それが東地区の持っている芭蕉の衣装が18枚だからだそうだ。
西地区や仲筋地区は、本物の芭蕉にこだわって揃えてないらしいが、東地区はこだわったているそうだ。
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芭蕉
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