2015/12/02

サングルロ

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」から移動
種子取祭で踊られる謎めいた踊り「サングルロ」
父の友達で仲筋村の人が書いた仲筋の芸能にも書かれている。人頭税は15歳からだったので当時は年齢をごまかしたかった。当時の服装は下着をつけなけい。子供ぽく身体の成長がおそければ15歳に達していないとして押し通したかった。サングルロの踊りのなかでゴロゴロと転がりながら舞台からはけるときに着物のなかがチラ見できるときに身体の成長度合いが図れる・・・ということから15歳未満の判断材料になる。
この不気味な風貌は「とうもろこし」を表しているらしい。沖縄は、台風が多いのと干ばつ等で気候が安定しない。暑さ・湿気で食物保存ができにくいのでいつも食糧難状態。なので神に恵みを乞う儀式や祭りが多い。

竹富島は、六つの御嶽で拝む女性の神司(カミツカサ:通称ツカサ)がいる。昔、仲筋村の唐マイチという司が、当時は、船旅の安全のために神司が乗り合わせた。そのころに船旅中で中国に留まる出来事があった。その滞在中に見つけたよく育つトウモロコシの苗を陰部に隠して持ってきた。そういういきさつからトウモロコシは神様へのお供えにはしていない。踊りの意味はよくわからないが600年続く種子取祭で守り披露され続けられるのには意味やしかけがあるのかもしれない。

2015/12/01

石垣島、竹富郷友会あずま会

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移動
竹富島の人頭税が解かれ教育制度が始まり、移動が自由になると四ケこと石垣島に多くが移住。これは、竹富島の玻座真村の東地区だけの記念誌。
元小学校の教諭だった親戚のおじさまが編集。相当困ったらしく広告欄にかなり偏った情報が・・・家族の名刺的なもので埋まっていた。仲筋会もあるのですが、西地区(いんのた)の記念誌は見たことないので今度あたってみようと思う。

2015/11/30

戦争中の竹富島

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」から移動
戦争が始まることになったので南洋から竹富島に移り住むことになった父。最初はお婆さんの弟が所有していた家に住んでいた。でも、昔のこと嫁と姑との関係からその家を出ることになった。当然、あてがない。当時、大方の人が石垣島、沖縄本島、九州、東京、満州、台湾へ移住したり、徴兵で出て行ったりして空き家が多かったので空き家に移り住んでいた。
ところが子供たちが大きくなるし、水汲みやらなんだかんだで手狭になってまた家を動くことに。そこへ、戦争も押し詰まった頃に。島を守る隊が本土から配属されてやって来た。当時、父たちが住んでいた空き家は広かったのでそこを隊の拠点とするというのでそこをまた出ることになる。
そうやって転々とし、西表島に学童疎開し、そこで大勢の人、当時の学校の若い女性教員もマラリアで亡くなった。
竹富島に常駐すことになった隊「大石隊」高知県の人たちで戦後ずっと東京竹富郷友会と交流があった。当時の小学校は、少しずつ場所を変えて授業を行っていたそうだ。空き家で簡易的に授業をしていた。半年に一度くらい、本土からニュースなどがフィルム映画となって学校で生徒たちに上映することがあって、そういうものから本土の情報を得ていたそうだ。そういうときは島の大人たちがのぞきに来ていたそうだ。

2015/11/27

東地区(あいのた)は本物

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移転です。
竹富島は、東(あいのた)西(いんのた)仲筋(なーじ)の三地区に分かれている。私の住まうとしているのは東地区。父の両親と母方の祖母の実家がある。
東地区の種子取祭の衣装は、全部本物の芭蕉で織ったもので揃えている。
今は、芭蕉の本物でつくることはないので一枚が十数万円~数十万円になるという。庭の芸能で女性たちが踊る「真栄(まざかい)」の踊りは、東地区が担当しているという。人数がマックス18人なので、がんばって18人からもれないように踊った人から話を聞いた。なんで18人限定?それが東地区の持っている芭蕉の衣装が18枚だからだそうだ。
西地区や仲筋地区は、本物の芭蕉にこだわって揃えてないらしいが、東地区はこだわったているそうだ。

2015/11/26

種子取祭




最近、こちらこちらのブログで書いてます。

弥勒面のひみつ

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」から移動
竹富島の守り神。竹富島はなんでもありで、あんなに小さな島なのに神、多過ぎ!種子取祭で世曳き(ゆーひき)で登場する弥勒面を被った大山家の御主前(うしゅまい)。

言い伝え(教科書本:民俗学者たちの記述・研究)では、竹富島の豪農の大山家の御主前(うしゅまい)が勢頭座敷という位階が与えられ子や孫たちを引き連れて竹富島の神と与人(よんちゅ)に豊作の報告をするという狂言(きょんぎん)。これだと大山家の御主前を称える竹富島世界観が未来永劫まで続いてしまいそうなのだ。弥勒面について言うと実はこうである・・・弥勒面が浜に流れ着いた。それを拾った中道家の人が朝な夕なに拝んでいたのを与那国与人(よんちゅ:役人、お偉方)が見て、与那国家で守っていくべきだと持って行ってしまう。さらにそれを目にした、当時権力があった大山家の御主前(うしゅまい)が持って行ってしまう。
ところが双方の協議の末、安置保管は大山家で、被るのは与那国家の人ということになったという。
現在は旧役場敷地内に弥勒奉安殿で安置。言い伝えは大山家側に成り立っているが、大山家が無理矢理奪ったのではないかというのが竹富島人の本音。大山家は権力を振りかざし竹富島を制圧していた。あの時代(人頭税時代)、島民は理不尽な税の重圧に絶え苦しんでいたように言われているが、大山家、与那国家のような力のある家々の拮抗に対していつも振り回されていたのではないかと推察する。

そうはいっても神と崇められている存在。神拝み、守りの主権争いで勝ったところで安泰を得られるのだろうか。人々、自然、島を守りここにない誰もが求めるそれはどう跳ね返ってくるのだろうか?今年の種子取祭はめぼしい人の姿が見られなかった。ある人は、弥勒の面のそれが跳ね返ってきたのではないかとつぶやいた・・・

2015/11/25

竹富島の家

この記事は姉妹ブログ「竹富島学習」からの移動
竹富島は、街並み保存指定地区になっているので家は竹富島式の建て方と決まっている。
のような
みたいな建て方じゃないとダメなんです。現在のうちの土地は
で、
みたいな野放図な状態なのです。どうすれば*こちらの土地はうちの土地ではありません
みたいなすてきなおうちが建てられるのでしょうか?まず、草を刈って土地ならしが必要。水を使えるようにする。電気がつくようにする。買い物は石垣島まで買い出しに行くしかない。確か離島は、いや、沖縄の離島は通販で荷物が届かない地域。アマゾンや楽天で買い物しようとしても配送してくれない地域。何をするにも離島までの送料が余計にかかってしまう。でもそれなりの価値があると私は思う。